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語学の散歩道#6 名前の話

もぐらくんとうさこちゃん

かいてみて、はじめてきがついたのだが、ひらがなだけだとかくのもよむのもとてもむずかしい。

なぜ漢字やカタカナが必要なのか、これでよく分かった気がする。

日本語学習者から、どうして日本語にはひらがな・カタカナ・漢字と三つも文字の表記があるのか、という苦情を耳にするたびに答えに窮したものだが、上記の例で見ると、日本語はこの三つの表記が揃ってこそ読み易くなるという不思議な言語だということを発見した。しかも、表記方法には一定のルールはあるものの、放送用語や法律用語、詩や小説、映画の字幕や音楽の歌詞など、すべての分野に共通する絶対的なルールはない。そのため、「モグラくんとウサコちゃん」と書くこともできれば「モグラ君とウサ子ちゃん」と書くこともできてしまう。日本語は表記方法が非常に自由な言語だ。もちろん、表記の仕方によってその印象は変わる。「よろしく」を「夜露死苦」と書けば、仏恥義理(ぶっちぎり)の青春時代が一瞬にして記憶に蘇るのではないだろうか。では、こういう表記の違いによるニュアンスの違いを外国人へどう説明すればよいのか。結局、元の木阿弥で説明に窮することになってしまった。


さて、今回のテーマは、言葉の輸出入にともなう名前の変化についてである。

グローバル化とインターネット化の結晶として国際的なネットワークが構築されると、世界のいろいろな国の様々な情報が容易に手に入るようになった。しかも、各人が各様に好きな情報を手に入れ、任意に情報を発信することができるため、情報の多様化が進んだ。こうして世界が近くなり、外国の人名や地名に馴染みが出てくると、結果としてこれまで日本仕様化されてきた情報が輸入元の情報に上書きされることがある。

子どもの頃に読んだ『もぐらくん』シリーズも、本当は「クルテク」という名前だったと知ったときは、100回は音読しないと覚えられないだろうと思ったものである。今では多くの方が、「もぐらくん」の本名は「クルテク」だとご存じなのではないだろうか。

たとえクルテクのことは知らなくても、オランダ生まれのミッフィーちゃんがうさこちゃんと同一人物であることにはお気付きかもしれない。1992年にNHKで放送された際には『うさぎのミッフィーちゃん』となっており、ついに脱・うさこちゃん化を果たした。当時、長澤彩ちゃんのナレーションに激ハマりして、何度も友人に「ミッフィーちゃんは」と声真似していたら、「うるさい」と怒られてしまった。


前回紹介したベルギー漫画の『TINTINタンタンの冒険』シリーズも、英語ではティンティンと発音される。犬のMilou ミルーは毛色が真っ白なためか、Snowy スノーウィーと名前が変わっている。日本では、タンタンとスノーウィーというふうにフランス語と英語からそれぞれ拝借している。こういう異文化の受容における日本語の自由さには母国語ながらしばしば感心してしまう。


フランス語の初級クラスを受講していた頃、同じクラスに「アヤネちゃん」という高校生がいたのだが、先生はいつも彼女のことを「アヤン」と呼んでいた。Robert ロバートをBob ボブと呼ぶようなものかと思っていたら、これは愛称ではなくフランス語の発音ルールによるものだった。

フランス語では語末の e は [ə] または無音になり、[エ]とは発音しない。アヤネちゃんの場合はAyane と綴るため語末の e が発音されず、「アヤン」となったのである。私たちの発音を聞いて先生は、「ずっとアヤンだと思ってた」とひどく驚いていた。フランス・ギャルのようなかわいい先生だった。驚いた時のあの大きな瞳は今でも忘れられない。さらに、フランス語では h も原則発音されないので、Hashimoto さんはアシモトさん、Hiroko さんはイロコさんとなる。

発音と綴り字の関係でいうと、私の名前もフランス語では語末の e が発音されないため、Rie「リ」さんとなってしまう。中国人か韓国人になった気分である。この興味深い発見をしたのは、先生が私の名前を使って例文を作った時だった。

 Ryé parle français. (リエはフランス語を話す)

私の名前の綴りは、彼女の頭の中では Ryé と変換されていたのである。ローマ字では Rie と綴るのだと指摘すると、またまた大きな瞳を開いて、「そうなの?」と驚いていた。頭の上から500ポイント、太字のエクスクラメーションマークが3つくらい飛び出していた。たしかに語末の e が無音なので、発音記号のaccent aigu アクサンテギュをつけて é とするところまではわかるが、i がy に変換されてしまうのは全く予想外のことであった。あまりの衝撃に、このカルチャーショックの記憶を留めようと思って、それ以降公式文書を除いて自分の名前をRyéと綴ることにしたのだった。おそらく、フランス人以外の誰にも理解されないと思うけれど。

話は少し変わるが、海外へ出かけると、私はいつも車をチェックしてしまう。街を走る車の種類でなんとなくその街の雰囲気のようなものが感じられるからだ。ヨーロッパではもちろんヨーロッパ車が主流であるが、私の視線はとりわけ日本車に注がれる。小型車人気が上昇気流にある中で、ロンドンではHONDA のFIT やTOYOTA のVitz 、ベルギーではSUZUKI車やダイハツ・MAZDA車を、シドニーではMAZDA のDEMIO やAXELA などをよく見かけた。訪れた年のブームもあるし、旅行中に限っての観察なので一概に判断できないが、それでも「街」に好まれる車種があると感じた。外観を大切にするヨーロッパでは、街の風景や人々の気質に馴染む車種が多く選ばれているような気がする。

かれこれ10年ほど前、コッツウォルズからロンドンへ向かうバスの中で気がついたのは、日本車の車名が国内の販売車と違っているということだった。FIT はJAZZ、Vitz はYaris という具合に。6年前に行ったシドニーでは、MAZDA のDEMIO がMAZDA2、AXELA がMAZDA3 という車名になっていた。輸出車が国内販売車と車名が異なるのにはいろいろ理由があるが、「海外だと発音しにくくなるから」、あるいは「音の響きが卑猥・侮蔑的な単語と似てるから」など、マイナス面によるものが主な理由らしい。

インターナショナルな販売戦略を狙うのであれば、商品のネーミングは重要な課題である。卑猥なだけの隠語であれば失笑を買うだけで済むかもしれないが、これが蔑称となると国際的に厳しい批判に晒されることになり、販路を断たれてしまう可能性だってある。国際市場においては語学や文化に精通していなければ、思わぬ失態を招きかねない。

一方、MAZDAは車名のグローバル化という販売戦略を掲げ、2019年に国内販売車を輸出車と同じ車名に変更した。ところが、MAZDA2 とMAZDA3を誤って購入する人がいたり、味気ない名前になったという声もあって評判としてはイマイチであった。販売実績の方も一時停滞気味だったようであるが、もちろんネーミングの変更だけに業績不振の原因を求めることはできない。しかし、名前を数字で呼ぶのは親しみに欠けるという指摘はもっともであり、そこに日本人の気質のようなものが見えるような気がする。

そんな私の愛車もDEMIO である。雨の日も雪の日もともに過ごしたDEMIO は今年15年目の車検を迎える。毎年のようにディーラーさんから新車購入を勧められるのだが、駐車場でちょこんと私の帰りを待っている姿を見ると、このうえない愛しさを感じてしまう。


私がMAZDA2 に乗り換えるのは、ずっと先のことになりそうだ。

<語学の散歩道>シリーズ(6)

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