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原書のすゝめ:#18 Rock, Paper, Scissors

本を選ぶとき、普通は読みたい本を選ぶ。

私が本を読むのは、今いるところとは違う世界へ連れて行ってもらえるからである。だから読みたい本を手に取るわけだが、自分の知らない世界を教えてくれるのは、案外誰かが勧めてくれた本だったりする。


今回の本は、『Rock, Paper, Scissors』。
知人が面白いと言って貸してくれた本で、Alice Feenyのミステリである。筆者はBBCで記者やプロデューサーとして約15年勤務したのち、『Sometimes I Lie』で作家デビューを果たした。


さて、この本における最大の難問は何かというと、邦題である。

そのまま訳せば、『ジャンケンポン』、あるいは『グーチョキパー』というミステリとは思えない邦題になってしまう。かといって、『石、紙、ハサミ』というタイトルもどうかと思われる。

結局、邦題は『彼は彼女の顔が見えない』(創元推理文庫:越智睦訳)となったようである。

邦題決定の経緯いきさつは知らないが、なぜ「彼は彼女の顔が見えない」のかといえば、夫のアダムにはprosopagnosia 相貌失認という脳障害があり、人の顔を認識できないからだ。


通常、ミステリのタイトルは謎解きのヒントやキーワードになっている場合が多いが、この邦題についてはなんともいえない。もちろん「事件」と無関係ではないし、この疾患がさまざまな「結果」をもたらしているのは確かである。

原題が『Rock,Paper,Scissors』となっていることには重大な意味がある。直接「事件」に関係がないとはいっても、これらは作品全体の重要なキーワードになっているからである。この点についてはぜひ原書で確かめていただきたいところだが、本作を読むにあたって、いくつか簡単に解説をしておこうと思う。

まず、英語のレベルだが、中級程度であれば、おそらく辞書がなくてもほぼ理解できるのではないかと思われる。各章の章立ては非常に短く、さすがBBC出身の筆者だけあって、文章も巧みで、とても読みやすい。

とはいえ、前置きなしでいきなり本書を手を取ると、少々戸惑ってしまうかもしれない。というのも、構成が少しばかり複雑だからである。


本書は、アダムとアメリアという夫婦がそれぞれ自分の視点から語る話と、妻が夫へ毎年結婚記念日に書く秘密の手紙、ロビンという謎の人物の視点で語られる話とで構成されている。もし、冒頭の英文でつまずいてしまったら、邦訳を読んでから原書を読んでみるのもいいかもしれない。

たとえストーリーが分かっていても、本書には魅力的な表現がたくさん詰まっており、単なる英語学習ではなく、言葉の表現力においても学ぶところが多いからである。


たとえば、次のような文章がそれである。

…sometimes the dust of our memories is best left inswept.

記憶として積もったほこりは、掃かずにそのままにしておいたほうがいいこともある。

<邦訳はすべて前掲書より引用>


…the sound of crashing waves serenading us.

打ち寄せる波の音がわたしたちのセレナーデだ。 


…The snow has stopped, but there is heavy rain bouncing off the bonnet, performing an unpleasant percussion.

雪は止んでいたが、激しい雨がボンネットに叩きつけ、不快なドラム音を奏でていた。


平易な英語にも関わらず、素晴らしい表現力である。


では、実際に本文の一部を少しずつ読んでみる。


Amelia

(…) ’Can a weekend away save a marriage?’  That's what my husband said when the counsellor suggested it. Every time his words replay in my mind, a new list of regrets writes itself inside my head. To have wasted so much of our lives by not really living them makes me feel sad. We weren't always the people we are now, but our memories of the past can make liars of us all. That's why I'm focussing on the future. Mine. Somedays I still picture him in it, but there are moments when I imagine what it would be like to be on my own again. It isn't what I want, but I do wonder whether it might be best for both of us. Time can change relationships like the sea reshapes the sand.

「週末にちょっと旅行へ出かけたくらいで、この結婚がうまくいくようになるのか?」
旅行でもしたらどうかとカウンセラーに提案されたとき、夫はそう言った。そのことばが心の中で再生されるたび、わたしの頭には、新たな後悔のリストが浮かんでくる。これまで自分の人生をしっかり生きず、無駄に過ごしてきたのかと思うと、深い悲しみを覚えた。わたしたちも、昔からこんなふうだったわけではない。とはいえ、過去の記憶はときに人を嘘つきにするものだ。だから、わたしは未来のことしか考えないようにしていた。自分の未来に目を向けている。夫と一緒の未来を思い描く日もあったが、またひとりになるのはどんな感じだろうとよく思っていた。といっても、決してそれを望んでいるわけではない。もしかしたら、お互いにとってはそうするのが一番なのかもしれないけれど。時とともに人間関係は変わる。波が砂の形を変えるように。

重篤な倦怠期を迎えた夫婦が、カウンセラーの勧めでスコットランドへ旅行に出かける場面から物語は始まる。

夫のアダムは脚本家で、ある有名作家の作品の脚本を書き、ドラマ化されたことで、しがないライターから一転して人気脚本家になる。ところが、相貌失認を患っているアダムは、周囲の人の顔が認識できないという問題があった。


* * *

Adam

(…) If every story had a happy ending then we'd have no reason to start again. Life is all about choices, and learning how to put ourselves back together when we fall apart. Which we all do. Even the people who pretend they don't. Just because I can't recognise my wife's face, it doesn't mean I don't know who she is.

もしすべての物語がハッピーエンドを迎えるなら、人生をやり直しても意味はない。人生とは、何を選択するかだ。そして、関係がこじれたら、それを修復する方法を学んでいく。おれたちはみんなそうしている。そんなことはしていないという顔をしている者でさえ。妻の顔がわからないからといって、おれも彼女がどんな人間か知らないわけじゃない。


こうした二人のそれぞれの語りに加えて、妻から夫への手紙が、毎年結婚記念日に密かに妻の手で書かれていく。一年ごとの夫婦関係の変化が挿話として旅行中の出来事の話に挟まれている。

以下は、結婚1年目の手紙からの抜粋。


* * *

Rock

(…) I know you think words wre important — which makes sense given your chosen career — but I have realised recently that words are just words, a series of letters, arranged in a certain order, most likely in the language we were assigned at birth. People are careless with their words nowadays. They throw them away in a text or tweet, they wirte them, pretend to read them, twist them, misquote them, lie with, without, and about them. They steal them, then they give them away. Worst of all, they forget them. Words are only of value if we remember how to feel what they mean. We won't forget, will we? I like to think that what we have is more than just words.

<石>
あなたがことばをすごく大事なものととらえてるのは知ってるー選んだ職業からすれば当然よねーでも、最近気づいたの。ことばはただのことばでしかないって。特定の順序で並んでるとはいえ、ただの文字の羅列で、だいたいは、生まれたときにたまたま割り振られた国のことばを使ってるだけでしょ。最近は、みんな使うことばに無頓着になってるよね。メールとかツイートとかでことばを無駄遣いしてる。ことばを書いては読んでるふりをして、ゆがめて、まちがって引用して。言葉を使うか使わないかにかかわらず、嘘をついて。ことばを盗んだかと思えば、またポイっと捨てて。最悪なのは、忘れてしまうことよ。ことばというのは、その意味の感じ方を覚えてるときだけ価値があるでしょ。わたしたちは忘れないよね? 私たちが持ってるのは単なることばじゃないと思いたい。

雪が降る、山奥のチャペルを改造したコテージに二人は閉じ込められてしまう。その二人を監視するもう一人の謎の人物、ロビンの視点からも物語が語られていく。


* * *

Robin

(…) Some people think money is the answer to all of life's problems, but they're wrong, sometimes money is the cause of them. Some people think money can buy love, or happiness, or even other people. But Robin won't be bought. Everything she has now is hers. She earned it, or found it, or made it all be herself. She doesn't need or want anyone else's money or things or opinions. Robin can take care of Robin.

世の中には、お金があればすべて解決すると考える人もいるが、それはまちがいだ。お金はときに問題の原因になる。お金があれば、愛も幸せも人さえも買うことができると考える人もいるだろう。だが、ロビンをお金で買うことはできない。彼女が今持っているものはすべて彼女自身のものだ。自分で稼ぐか、見つけるか、つくるかして手に入れたもの。他人のお金やものは必要ないし、一切ほしくもなかった。他人の意見も必要ない。自分の世話は自分でできる。


本作は限られた視点での描写しかないため、全体像が見えにくい。そこにこの作品の面白さが隠れているのだが、一方で登場人物たちが語る言葉の一つ一つが物事の本質をついており、思わずハッとさせられる。


冒頭で、『彼は彼女の顔が見えない』という邦題はアダムが「相貌失認」という障害があるからだと書いた。

しかし、私たちは相手の顔が見えていたとしても、はたしてどれだけ相手のことを知っているのだろうか。本作を読み終えたあと、相手のことも自分のことも本当に知っているといえるのだろうかと自問してしまった。
そして、言葉が持つ力についても。


『Rock,Paper,Scissors』はアダムの処女作のタイトルなのだが、この本は日の目を見ることなくずっと引き出しの中に収まっていたものだ。つまり、本作のタイトルはアダムの未刊の作品のタイトルというわけだ。


その理由も、原書を読めばわかるはずである。



<原書のすゝめ>シリーズ(18)

※このシリーズの過去記事はこちら↓




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