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原書のすゝめ:#21 Les scrupules de Maigret

メグレ警視の捜査法は独特である。

犯行現場へ赴くと、状況を観察し、どのようにして犯罪が起こったのか、どのような人物が犯人たり得るのか、なぜ犯行に至ったのか、など人間や物を観察しながら事件を解明していく。

次々に事件を解決するメグレの名声は次第に高まり、のちにこれが「メグレ式捜査法」などと呼ばれることになる。

そして、ロンドン警視庁スコットランドヤードから「メグレ式捜査法」の「見学」にやって来る警部までいるのだ。


ところが、そんな捜査法などメグレ自身は持っておらず、ただ犯罪現場を観察し、犯人の心理状態に身を置くことで事件を推理していくだけである。そのため、メグレの捜査方法はむしろ直感に近い。

メグレシリーズには、多くの探偵小説でみられるような奇抜なトリックが使われることはほとんどない。ドンデン返しで読者を驚かせることも、『羊たちの沈黙』を筆頭とする昨今のミステリに多い、残虐でグロテスクな連続殺人というのもない。殺人自体が残虐な行為であることを除けば。


今回ご紹介するのは、『Les scrupules de Maigret』(直訳は「メグレの疑念」)。
第一章の副題、『メグレと火曜の朝の訪問者』(河出書房新社)を邦題にした作品である。



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Le visiteur du mardi Matin

Cela n’arrive guère plus d’une fois ou deux par un au Quai des Orfèvres, et parfois cela dure si peu qu’on n’a pas le temps de s’en apercevoir : tout à coup, après une période fiévreuse, pendant laquelle les affaires se suivent sont répit, quand elles n’arrivent pas à trois ou quatre à la fois, mettant tout le personnel sur les dents au point que les inspecteurs, faute de sommeil, finissent par avoir l’air hagard et les yeux rouges, tout à coup c’est le calm plat, le vide, dirait-on, à peine ponctué de quelques coups de téléphone sans importance.

 そんなことは、オルフェーヴル河岸には、年に一度か二度しかやってこない。もっとも、やって来たとしても、そんなことが続くのはアッという間のことなので、傍目には少しも気づかれない。一度に三つも四つもの事件は襲わないのだが、とつぜん、いくつかの事件が踵を接して起こり、熱気がむんむんと立ちこめる。こうした時期、刑事たちが連日の睡眠不足で殺気立ち、目を真っ赤にはらせばはらすほど、あらゆる人たちを巻きこんで、疲れ果てさせる。それからとつぜん、嵐のあとの、ハタとすべての動きがとまったような静寂がやってくる。まったくの手持無沙汰であり、とりとめのない電話のベルだけが、かろうじて時間の推移を告げていくのだ。

谷亀利一訳


こんな具合に物語は始まる。

この作品の一風変わっているところは、冒頭から事件らしい出来事は何一つなく、死体はおろか、犯罪すら起こらないことである。

オルフェーヴル河岸の警視庁内の様子や冬のパリの描写がひたすら続いてゆく。


* * *

Il est vrai qu’il en était de même un peu partout dans Paris. On était le 10 janvier. Les gens, après les fêtes, vivaient au ralenti, avec une vague gueule et des déclarations d’impôts.
 Le ciel, à l’unisson des consciences et des humeurs, était d’un gris neutre, du même gris, à peu près, que les pavés. Il faisait froid, pas assez pour que ce soit pittoresque et qu’on en parle dans leur journaux, un froid déplaisant, sans plus, dont on ne s’apercevait qu’après avoir marché un certain temps dans les rues.

 パリ全体が、ほとんど似たりよったりでもあった。一月十日の朝である。人びとは、正月遊びのあとの二日酔い気分で、やがてやってくる、ツケの取り立てと税金の申告に漠とした不安を感じながら、ぼんやり生きていた。
 空もこうした心理と気分に調子をあわせて、薄灰色をしていた。歩道の色とほとんど変わらない。寒さは厳しかった。といって、冬枯れのスカッとした風景が生まれるほどの寒さでもなかったし、新聞で話題になるような寒さでもなかった。街を何分か歩いてみて、初めてわかる不愉快な寒さだった。

谷亀利一訳


そして、火曜日の朝、冬の空のようにどんよりとした空気が漂う警視庁に、ある男がやって来る。

その人物とは、ダンフェール・ロシュロー広場に診療所を構える精神科の医者である。

メグレの部屋に突然やってきた訪問者は、女房が密かに自分を殺そうと企んでいるのだと訴える。そうして、自分の疑念についてひとしきり説明して帰っていくのだが、事件と呼べる出来事は何も起こっていない。

ところが、この男に続いて、その妻がメグレの元へやって来る。メグレはそこに嫌な予感を覚え、犯罪の芽生えのような不穏な空気を感じとるのだった。


コナン・ドイルのホームズシリーズ第一作が出版されたのが1892年、クリスティーの処女作である『スタイルズ荘の怪事件』の初版は1920年。

シムノンがメグレシリーズを書き始めたのは1930年代だが、フレンチミステリの代表であるガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』(1907年)をはじめとするそれまでのミステリは、いずれも名探偵と助手という二人組が主流であった。


ところが、メグレシリーズはそうではない。
メグレという傑出した人物を支えるのは、ワトソンでもヘイスティングスでもなく、パリ警視庁の刑事たちである。古株でメグレの右腕であるジャンヴィエ、若いラポワントやリュカ、トランス、鑑識のムルス、医師のポールといった面々が、それぞれに役割をこなしながら事件解決に挑む。

スウェーデンミステリの先駆者であるマイ・シューバル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベックシリーズ(1965年に第一作『ロセアンナ』が刊行)は、エド・マクベインの87分署シリーズ(第一作の『警官嫌い』は1956年に出版)の影響を受けているとよく評されるが、この87分署シリーズは、実はメグレシリーズの影響を受けているのではないかと思う。


それは、中心人物が「探偵と助手」から「刑事たち」へ変わったという点ばかりではなく、語り口調がより「小説的」になった点からもその影響が感じ取れる。

既に紹介した作品を例に挙げて比較してみる。

まずは、コナン・ドイルの書き出しから。

 クリスマスが過ぎた二日目の朝、時候の挨拶をしようと、私は友人のシャーロック・ホームズを訪ねた。ホームズは紫色のガウンを着てソファでくつろいでいた。手近なところにパイプ架けがあり、そばには先ほど目を通したと思われる朝刊がしわくちゃにされて山のように積まれていた。

『青い紅玉』拙訳

次に、アガサ・クリスティーの冒頭。

 ひところ世間を騒がせた”スタイルズ荘事件”に対する関心は、最近ではいくぶん下火になった。それでもこれほどのスキャンダルを起こしたからには事件の全貌を記録しておくべきだということになって、友人のポワロならびに遺族の方々から、わたしに依頼があった。事件を記すことで、いまだにささやかれている興味本位の噂も消えるはずだと思ったのだ。

『スタイルズ荘の怪事件』矢沢聖子訳


いずれの場合も、助手が事件を説明するという形式で物語が展開してゆく。

それに対して、シムノンのメグレシリーズは、一見事件とは関係がないように思われる風景描写や人間観察が、登場人物の視点ではないところから語られる。

そして、エド・マクベインの87分署シリーズにも、シムノン作品に見られるような、ほとんど小説と言ってよい文学的な表現が随所に見られるのである。

 北辺を流れる河からは、市は空にそびえる巨大な屋根の輪郭しか見えない。見上げるものは、何か畏怖に似たものを覚え、ときにはあまりの壮麗さに息を呑むくらいである。空の青さに喰い入るようにそそりたつ建物のくっきりした輪郭、平たい面もあれば高々とそびえ立つ断面もあり、雑然とした矩形と針のように尖った屋根、尖塔、避雷針。紺青と白のぼかしの大空に、あらゆる形が幾何学的調和をもって並んでいる。

『警官嫌い』井上一夫訳


私の好きなシムノンの作品に『猫』という小説がある。これは、ともに再婚同士の老夫婦が互いに憎み合いながら一つ屋根の下で暮らすという、なんとも悲喜劇的な作品なのだが、この作品の最後に「紙魚の手帖」から抜粋された作品評が掲載されている。

その中で、「(シムノンは)筆力があるのにどうしてメグレはつまらんのだ」というくだりがある。

私にはミステリ史もミステリ評を書くこともできないけれども、このメグレ評には真っ向から反対したい。


今回のように最後の最後まで事件性がない(最終的には事件は起こる)作品を読むと、たしかにミステリとしては仕掛けが足りないし、味気ないとすら言えるかもしれないが、メグレを含むシムノンの作品は、人間心理の機微を描き、人間学という謎に挑むところにその面白さがある。


アンドレ・ジッドは、シムノンを真の小説家であると絶賛しており、シムノン自身も純文学を描きたがっていたのだそうだ。

推理作家であり推理小説評論家でもあるボワロー=ナルスジャックが、

「メグレは犯罪よりも犯人に興味を持つ(中略)。重要なのは指紋でも置忘れた物でもなく、動作やまなざしや沈黙だ」(『メグレと消えた死体』の訳者あとがきより)

と述べているとおり、シムノンはバルザックやゾラのように、謎解きよりも人間の観察に主眼を置く作家である。


これをミステリとして面白いと思えるかどうかは読者次第であるが、人間そのものが謎でありミステリーであると考える私には、メグレシリーズは限りなく面白い作品だ。


最後に、本作の訳者である谷亀利一氏の言葉をお借りして締めくくりとしたい。


〜いずれにしろ、シムノンの人生を見る目の化身であるメグレ警視が、人生の深い味覚者であることは、間違いないようである〜




<原書のすゝめ>シリーズ(21)

※このシリーズの過去記事はこちら↓


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