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It's ME.

(前ブログより再掲載 執筆日二〇二〇年七月二十九日)

自分自身とは。

とりあえず簡単にいきましょうか。

生まれは、二〇〇〇年九月十四日。大阪のどこかに生まれ堕ちました。

血液型はO型RHは陽性。現在の身長は非公開。体重も非公開。性別は有りません。

精神福祉障害者手帳、二級。 診断名:自閉症スペクトラム障害,双極性障害,解離性同一性障害(現在主人格含め五人)

本当は寂しがり屋、なのに対人恐怖観念。本音と建前の距離が遠い、生活と性格の其々の本当と虚偽のギャップにより自爆するスタイル。

感情や思考を発言することを年々出来なくなっている。話をすることが好き、聞いてもらうことが好きだが隙あらば自分語りをする人だと思われてほしくない事もあり話しません。話するとしても聞かれたことだけ。

小学2,3年あたりから、エレキギターを手にとり人生で一番尊敬している師匠と某有名事務所で名を馳せて居る先輩を持ち、プレッシャーというプレッシャーに嫌悪感も持った。

昨年の冬まで、アイドルや多々のバンドのスタジオミュージシャン,サポートギターとして活動しておりました。

アー写もフライヤーも探せば出てくると思います。お恥ずかしながら。

小さい頃より、機械がとても好きです。ゲーム機を買ってもらうとまず最初にすることは分解と組み立てでした。

複雑な回路と理論に乗っ取った構図は私の幼い心をくすぐっていました。

それに加えて、人体もとても好きです。機械や人体は難しそうに見えて単純なところがあったり、時たまエラーが起こってしまうという完璧であって完璧でないところも好きです。

すぐ壊れるところも。

そこから、将来の夢が 臨床工学技士 というところにたどり着きました。

私は残念ながら障害者なのでなれるかどうかまだわかりませんが。

薬もオタクのように好きです、熱中しています。

服薬量は増やせませんが、好きな薬は非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)です。よく助けてもらっています。

ベンゾジアゼピンの薬は助けてもらっていましたが、体に蓄積し、滞納する感覚が酷く気持ち悪く感じ、卒業しました。

どうでもいいですね。

ざっと、経歴をお話ししましょうか。

・乳幼児,幼少期時代

二千八百グラムの少し未熟な体の女の子、産まれて体外に出たあとすぐに保育器に入れられたそうです。

母は胎児により気付かなかった腫瘍により大量出血、幸いに輸血とまではいかないがかなり疲弊していたそう。

翌日から、腹を切ったのにも関わらず腹筋に明け暮れるほど体力は復活していたみたいだが母乳が摂れず、私は人工ミルクで育ったそうだ。

検診も二カ月までは行っていたみたいだが、その後すぐに父のリストラが原因で夜逃げとして福井に飛び立った。

出産したその数か月後に旦那がリストラ、夜逃げと育児。考えただけで胃が痛くなり食事もとれなくなってしまいそうになるであろう精神的負荷。

アンタは幼少期、泣くこともなく手のかからない子だった。とよく言われていた。そこは楽だったそう。

幼児検診とは、さまざまな病気に対してのワクチン接種や発育・発達に対する親と子のつなぐ架け橋みたいなものですね。

その検診にも行けず、自身と娘の保険証もない、旦那の知り合いといえど助けてもらっているという気持ちで気疲れ。そんな状況で二,三年ほど過ごしていたらしいです。

大阪へ帰ることになった時も、父は早く地元へ帰りたいと駄々をこねて世話になった人たちへ礼もせず私を連れて一人で大阪に帰った。

その中母は、自身と旦那の携帯代や引っ越しにかかった費用を返すために働き続け、世話になった人たちへ恩を返していたそう。

どんな気持ちなのか、想像すら出来ません。

そして、大阪に母も帰れた時私を幼稚園に入れないといけないということになり沢山新居と施設を探し回ったそうです。

漸く落ち着いたのが私が五歳の時。新居の近くの私立幼稚園に入園できたとき。

費用はかさばるが、たまたま枠が開いていたのがそこの幼稚園だけだったらしい、父も仕事復帰できており何とか入れたそう。

・幼稚園児

とにかく多動に悩まされていました。一人で遊ぶことを一番とし、なんでも独り占めをしていたそう。

その時から発達障害の気しかない状況でしたが、母は受け入れることが出来なかったそう。

集中力も物事に顕著に表れ、手先を使うことや勉学はとても熱心に取り組んでいたそうです。

写真を見た感じ、人生最高潮可愛いの時でした。人生終わるのが早そうですね。

・小学生時代

多動。リーダシップに長けていると毎年通知表に書いてあったことを覚えています。

低学年の時は兎に角勉強が楽しくて、友達も多かった。明るく元気な児童だったと思います。

みんなを纏めようと思って何かをしたわけでもありません。ただ声を出してしまいそれに賛同してくれる人が多かっただけで、私自身はイイコトなどしておりませんでした。

高学年に成ると少し責任感のある役柄に就いたり出来る学校でした、児童同士は勿論先生方にも可愛がられていた私は役員に選ばれ、代表にもなっていました。

ですが、出る杭は打たれる。目立つ存在であること、その時は知らなかった視えない障害と視えてしまう障害で一部の児童に批判されていた。

感情も身体もコントロールが出来ないスペックを持ってしまっていたので、クラス全体を崩すこととなってしまいました。

他者との距離感等が解らず、すぐに手を出したり授業妨害をするようなことに発展していた。

傷が自身についてしまうと他者に対して極端に距離を離し傷をつけないと癒えない精神状況と人格だった。

だが、目立つことと責任感のあることを任されることに私は承認欲求と自尊心と向上心が上がっていたので楽しかった。

今の私から見ても、体にいろんなものを抱えながらそうやって責任あることに熱心に取り組むその姿は誇らしい過去の自分だ。

そんな私に一部の人間の感情のはけ口として妬みともとれるその行動がヒートアップしていき、本来の自身と熱心なイイ子ちゃんの自身と乖離していった。

そのギャップで私の精神は少しずつ崩れるかのように手のひらに跡をつけていた。

いつも明るくて元気でなんでも本気で取り組んでいた児童が手の平に本音を乗せているのを見つけて当時の担任は激怒した。

かなり昭和チックな先生で人生で一番好きな先生だが、流石にその時は素直に助けてくれと言えなかった。ギャップを見せたくなかった。

という、少し面倒くさい小学生時代を送っていました。

・中学生時代

自身の通っていた小学校と隣の小学校が合併して一つの学年に成る。

地獄の始まり、始業式の日私のクラス以外が早く終わっていて一緒に帰ろうと待っている生徒で廊下はあふれかえっていた。

はじめましての挨拶の声、六年振りの再開を喜ぶ声、学校終わりのことを目論む楽しそうな声、そして自クラスの終礼の声。

その後に響いた声は、罵声。

粋がる人間もいるものだと他人事のように考えているとその言葉は私に投げかけられていたことに気づく。

自クラスの隣の席の坊主、隣あたりの眼鏡の奴。その他もろもろの男子生徒。言い分は『元の小学校でイキってたんかしらへんけど調子乗んなよ』だと。おや映画の見過ぎか当時流行っていたクローズの見過ぎだと思った。

とにかく、その“イキっていた”か否かというところに対しては小学生時代私に妬み勘定を持っていた人間が発言したのだろうと思っていたし、大体察しがついていた。ましてや、入学式の時に代表の挨拶を私がしていたので余計にわかりやすかったのだろう。地味な見た目だったのに。

スルースキルなど持っていなく、当時多動が治まったと思っていたらトゥレット症候群により体もうまくコントロールすらできなくイライラしていた時期だったのか唐突に教卓の隣の机を次々と投げてケガを負わせた。そして一緒に帰る約束をしていた友達にも迷惑をかけていた。

“舐めてんちゃうぞ”みたいな気持ちの悪い感情で支配されていたんでしょうね。気持ち悪い。

気が付いたら、母親と校長室で謝っている状態だった。 その時にも『アンタはちっちゃいころ手かからん子やったのにな。中学生なったからって調子乗んな』

と言われていたことを鮮明に覚えている。

勉学もだんだんする気が無くなった。

当時のあの純粋な気持ちは、周りと違う、いい意味でも悪い意味でも。

身体は勝手に動いてしまう、こだわりが他よりあるのも薄々気付いていた。

でも、自分自身には手先の器用さや勉学に対する意欲関心や音楽のプライドが長けているいいところも気づいていた。

なのに、他者との関わり方が錯綜していっている思春期特有の悩みと、自制心の欠落。癇癪を他者に共有してしまう。

そんな考えと気持ちが入り混じっている状況で、いいところを大人に表明しても

『今勉強ができでも人としていいところの高校入学できるわけがない。』と、在日韓国人の初任の女の教師に言われた。

そこから、在日韓国人を見るとフラッシュバックするかのように教師の顔が出てくる。

中学一年生と二年生、暴力と妬みと承認欲求でいっぱいな自分は生徒指導室の象徴のように扱われた。

小学生のころ、めっちゃ頑張ってたのになあー。堕ちたな。

毎日聞こえていた、でも小学六年生に残してきた本当の自分がこんな形で表現されていたのかなとひどく思う。

中学三年生。

毎日落胆する精神と自尊心。報われることのない承認欲求。頭から剥がれない教師の叱咤激励の声と同級生の失望の声。

こんなイカしていない、自分って気持ちが悪い。小学六年生の時に取り繕った愛おしい自分が欲しい。

今の自分は自分じゃない、家に帰っても両親が罵声を挙げライフラインは通っていない。

父親の飲酒運転により、警察と検察の手紙と来訪。

抗うつ薬と睡眠導入剤を接種し、まるで何事もなかったかのように還ってくる“オカアサン”

勉強どころか、ご飯も食べれないくらいの毎日。

今まで、お父さんもお母さんも苦労してきたもんね、今度は私が何でもしないと。という十四歳なりの思いやり。

大丈夫、今は。 と思っていながら手のひらの叫びが痛くて仕方がない。

痛みをとるために痛みで癒して、見つけないように暗いところに飛び出して。

生きていることと、今の自分を消したい気持ちでいっぱいで、必要悪を。

気が付いたら、首に痣と血。 腕にカッターの圧。 鋭い嗅覚とまだ生きていると無理に教え込まれる白く濁った眼から、自身の体から出たブツ。

そこまで悪くない頭は機能していなかったが、一瞬で。

縊頚だ、私がしたのか? 記憶はない。ご飯を作って食べていた形跡が私の部屋の机にあったが私が作ったものでも正気の人間が作ったような料理じゃない。

食材という食材を贖罪にかけたかのように、おおっぴろげに。

私は本当に堕ちた、だから今ここで死んだんだ。と察した。

母親はリビングに、父親は隣の部屋に。 言葉を発せなかったので、その時最大限に出せる声を出した。

父親が一番最初に来たが、首を吊りましたよーと言わんばかりの部屋を目に入れた瞬間にパニックになってしまい叫んで母親を呼んだ。

母親は一目見た瞬間に涙し、救急車を呼んだ。

あっているけど、してほしかったのは、呼んだのはアンタらだ、と思っていた。

救急車の中で、私はまだ白い眼をグルグルと走らせながら生きてんぞという電子音を聞きながらぼうっとしていました。

母はずっと『アンタが死ぬことが一番怖い。何でこんなことした。』と言い寄ってきていたが、今更もう遅いと諦めでいっぱいだったので何も言わなかった。

幸い、体に後遺症残らず眼の白濁も奇跡的になくなった。ただ新しいものが私にこびりついた、抑うつと解離性障害。

確かに、記憶を飛ばす瞬間は多くなってきたけれど辛いことを思わずの時間が生まれてゆとりができていたから深く考えなかった。

そこからの事、学校には一切行けなくなった。

誰かの腐ったものを机の中に入れられたこと、教科書と体育館シューズ等をつぶされ棄てられたこと、それを見つけた担任が笑いながら『こんな荒い使い方するのだれー?え?○○?汚いって~~』と言われたこと(見たらわかる不自然な物損)、机の上のあるあるな落書き、トイレのあるあるなバケツ水、自身の昼ごはんを足で踏みつぶされたこと、制服を学校の池に捨てられていたこと、体育終わりの制服処分、体操服の落書きと汚し

そして担任、副担任、学年主任、教頭、校長へ相談したときが『生徒一人のそんな声に対応ができない、事実確認しても学年集会しても無い』との返答。

学年主任の前田さんはおいては、一年と二年に起こしてきたことのお返しや。と。

学校のことは学校で終わらせたい精神の私は教育委員会に連絡した、学校との連絡を取ったが緊急措置として別教室で単独授業と、今年度動かすわけにはいかないので来年度学年の教師を解雇に。と言われ終了。

そんな状況なら、私は学校という汚い世界に出向かねぇという反骨精神で行くことをやめた。

父も母もトイレや部屋に完全に引きこもってしまう娘の姿を見て心配と怒りとで喧嘩をしてしまい、父は金で母は行政に私をすべてそこで終わらせようとした。

母は、児童相談所と教育サポートセンターに連絡し保護と精神診断を依頼。父は勉学がない私が嫌みたいなので家庭教師をつけてくれた。

そこで初めて、自閉症スペクトラムと抑うつと解離性健忘を診断。

三歳児検診等を飛ばしたこと、幼・小・中と担任やその他の人からの疑いを母は信じれなかったこと、色々な原因が診断そして気付くことが遅くなってしまったとされる。

変人扱い止まりかと思えば、本当の障害とは思わなく私は信じれなかった。

自閉症も解離もどういう障害なのか全くわからかった。だからこそ勉強誰よりもできる、誰よりも頭いい、障害なんかじゃないと言い聞かせる、証明するために勉学に励んだ。

学校のテストは、惜しくも最後しか受けれなかった。五ツ木だけは証明になると思い込んで受けに行った。

市内で一番偏差値の高い高校のA判定を貰えてうれしかった。

でもその紙をダイニングテーブルの上に置いておいたが気付けば、緑の紙切れ一枚の下敷き。

『五ツ木の内容を見てほしかったらこの書類を母親に渡せ。』と父。

もう、人なんか死ねばいい。自分以外の人間なんて死ねばいい。消えてしまえ。死んでくれないなら消えてくれないなら私が消える。

有象無象だ。自身が抱えた悩みも、経験も、喜怒哀楽も。 家族も、友達も、大人も。全部、あるようでないもの。

みたく、まるで般若心経の世界に入ったかのように達観してしまったらしいです。面白いですね、ヒトというものは。

中学生の生活は主に気付かなかった病気による自我のばらつきからのいじめ、不登校、人間不信といったところですかね。

・高校一年生(事情によりここから刻んでお送りいたします。)

中学生の最後の方に、児童相談所と教育サポートセンターで過ごし、傷はたくさん増えたけどサポートセンターの田中さんに救われて高校の願書提出と試験を受けに行けた。もちろん、市内どころか府内で最低ランクの高校。

“でも、新しい自分を手に入れたから大丈夫。”と思って友達も同じ出身の子もいないところに入学した。

もちろん、試験も最低ランク。家庭教師つけてくれてありがとー!って感じ。九十五点以下の子は生きてる意味ないくらい見下して入学式!

周りの親もごりっぱ!アタシ、元ヤンなのーといわんばかりのルックス。かなりイケてる。

制服も持ち物もすべて自由、可愛くしないと。メイクもばっちり。戦闘するかのような顔面ピアス!目立って目立って仕方ないけど求めたものなんでしょ?

勉強なんてしなくても大丈夫、今までの自分がしてくれてたからね、もはやおさらい程度??

あれ、次の授業終わっている?あれ、この子と遊ぶ約束してたっけ?あれ、ここどこ?あれ、なんでこんなに怒られてんの?”

あれ。

楽しい時間も束の間。

治安の悪い場所、治安の悪い人間 『なんか気に喰わね』の精神で破滅。

付き合った記憶の無いパートナー?浮気?メンタルやられないよ。私貴方の事好きじゃない、告白された記憶ないです。すみません。

“つごうわるくなったら○○ってきおくないっていうねんてぇ~”

“そりゃパートナーに浮気されるしなんなら人の事振り回しすぎ。” “アイツなに?” “もうええて、お前○○公園来いよ” “こやんかったら家行く”

といった、格好の悪いことを男女関係なく私によく言ってきておりました。なんのことだか。苦笑

ヒトという生物自体を拒み、学校や家、私が属しているコミュニティーすべてにおいて居場所がなくなった。

完全に人格は崩壊し、人間特有の感情というものが制御された。意図的ではない。

その姿を見た、当時高校一年生の時の担任と副担任がこれはひどいということで、心療内科に連れて行ってくださった。

心療内科では、兎に角存在意義の否定の話をたくさんしたので診断は境界性パーソナリティー障害。

まさかしっかりとした診断が下ると思っていなかったのか、教師は焦って実家へ。

親にちゃんとした大きな精神科へ連れて行ってほしいと説得してくれていた。その時はもう遅いしもう意味ないと思っていた。

母親は兎に角『ライフライン止まっている状況だし、保険証もない。経済的に苦しいので行けません。』と。

半ばあきらめで帰路についた先生たちの背中は痛々しいかった。

後日、大阪市立総合医療センターに受診することとなり、いつものように検査と問診。

安定の診断は 自閉症スペクトラム,抑うつ,解離性障害。

聞き飽きたので私は不動。親は落胆、教師は顔面全体に安堵感といったところだ。

なんでこんな人生過ごさないといけないのか。

『学校』という場所は、個性を殺し郷に入れば郷に従わなければいけないのか? 自我を持ち貫こうとする勇ましいやつや、どうしても変えることのできな

苦悩を押し殺してまで生き続けているやつをつぶす権限をどこから与えられているのか?

そういう、ヒエラルキーに乗っ取られてまで生きていたくないと思い授業以外トイレで過ごしていた。 

流石に便所飯を食べていた時教師にばれた時、学校のカウンセラーの人に相談しろと言われたり、周りに聞き込みを勝手にして余計に炎上したり、友達と思っていたやつに裏切られたり、本当に居場所がないと思う学校生活しか知らなくて家に持ち込んでも緑の紙切れを書いては破ってたり、渡されたり、抗うつ薬と眠剤に頼って仕事をギリギリで始めたオカアサンを見て無理になった。

もう早く二人は別れて欲しかったですね、心底。

もう耐えれない 妙にリアルな幻聴と幻覚に苛まれながら過ごせない。どうやって生きて行けば良いのか解らない。

なんでもかんでも有耶無耶になってしまって、たどり着いた答えが私にとって一番美しい死に方、そして私という人間がいたことを思い知らしめたいと思った。すべてやりきることが出来たのならそれは過去形になってしまうがそれでもよかった。きっと私を甚振った人間は私のことなど覚えていない、そんな軽率な行動だった。ただそこで“そんな軽率な行動たちで価値をつけることのできない命を終わらせてしまうのか?”という輩がいる。

そんな奴に言いたい。

現在、日本の社会問題になっているSNS等での誹謗中傷。

言葉というものは凄く影響力のあるものの一つだ。人柄や立場によれば聞こえ方も変わる。音を付けて世の中に浸透していく言葉もある。

あえて汚い言葉や、アングラな世界のワードを使ってリアルを伝える人もいる。

そして何より美しく、何より汚いのが日本語特有のイントネーションの違いや、場所の違いで意味が異なったり、受け取り方ひとつでイメージというイメージが変わったりする。

その人のこと想って、言った一言だけで人生が何から何まで救われたり報われたりする場合もあるけれど

その人のこと想って、言った一言だけで受け取り方によって人生が崩壊してしまう場合もある。

その人が変わった価値観の持ち主だったら? その人が変わった人格形成をしていたら?

んなことを考えていない人が多すぎる。 私も自閉症スペクトラムのアスペルガー群の持ち主で、時たま容赦ない一言を投げかけてしまう時がある。

そこから人を傷付けたこともある。相手の理解があればそれもうまく流せたりこれからのために改善することもできる。

そのためにはまず認識するツールが私には必要だったし、かなり時間を要した。 その間に私の言葉や行動で傷をつけた人間には心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

だからこそ、私もそうしてきたからこそ 私が当事者たちの言葉や行動によって死んだという事実を遺る様にそして生きたことも遺ってほしかったからかなり細かく計画を立てた。

結果は、惨敗。 部屋に完全引きこもりをし自殺計画を立てている三ヶ月間の間に両親の離婚、そして私の解離健忘により縊頚と薬物の多量服薬による自殺未遂によってすべてが別の意味で終了した。何もかも終わり。堕ちてたしもう違う自分だ。と切り替えて新生活へ。

高校一年生もいじめと病気により出席日数ギリギリのラスト一日で二年生に上がった。

・高校二年生

ほとんど学校には行けなかった。行ったとしても授業中の聞こえてしまう私への誹謗中傷。ご飯もトイレにて独りで食べていた。

もうそのころには食事をとることのできない身体にはなっていたが教室で誹謗中傷と暴力を受けながら食べることよりも、トイレで食べるご飯のほうが数千倍美味しいと感じれた。

私の病状の悪化、父の学費未納により中退せざるを得なくなってしまった。

私の青い生活や、人並みに経験する学生生活というものはあっけなく終わり何も手に入れられなかった。

・中退後、二〇一八年齢十八。

新居の引っ越し、調停離婚だったが慰謝料もとれるかわからないし費用がないと嘆いていたので仕事をはじめお金を渡した。

ある程度落ち着いた、、と思ったのも束の間。

何年間も働いていなかった母が働きだして数か月後、私も仕事のために早寝早起きを心がけて生活をしていた。

ある日の夜中、二人とも眠剤を飲んで寝ていたらうめき声が。『殺してくれ、痛い、足がだるい。』とこちらに近づく母の声

寝ている私を起こす為か、必要以上にドアを大きな音を鳴らしながら開け電気をつけた。

まぶしさと、眠剤がほどよく効いて眠くて仕方ないときにだったとでカッとなって『なに?!』と言ったら

『アンタは寝れるからいいな!!あんたと違って私は毎日毎日働いて体死にかけや!あんたも起きてろ!!!』と意味の解らない発言と無理に引っ剥がす私の掛布団。

苛立ちと眠気で意識がおかしい。そんな日々が続き、とうとう私も寝れなくなった。

体調も壊しがち、遁走が激しくなってきて、三度目の自殺未遂で扁桃腺を全摘しなくてはならない状況に成った。

“初めての手術”

耳鼻科で私は子供の声や鳴き声を聞くとパニックを起こしてしまうということが分かったので何かあった時のために臨床心理士を付けると言って下さった。

その時に出会った心理士さん(以下Sさん)はとても私は大好きで今でも続いている。

そういう日々が続いて、仕方なく夜職をするようになった。

ミュージックバーの店員。メインはバーテンダー、サポートでギターの演者。

とてもいい環境だった。周りはプロのミュージシャンや、スタジオミュージシャン、音楽講師ばかりで私にとって新しい居場所だった。

小学三年生から唯一長期続けているのがギター。音楽だけは私を裏切らない。

そんなものにあふれている環境だったので長く続いた。

そこから、私はギターでスタジオミュージシャンになった。アイドルのバックミュージシャン、REC、サポートメンバー扱いのギターリスト。

収入も増えて帰る時間も少なくなって、自由で最高。生きてる心地が久々少し感じた。

そんな中、別の音楽の仕事が増えたせいでバーテンダーの仕事と両立できなくなり、オーナーと一悶着があった。

パートナーができたことと、ほかの女性バーテンダーからの愚痴によりパワハラを半年間受けることとなった。

理由はバーテンダーが入れなくなったことだった為、辞めるに辞めれない、プライベートとミュージシャンがあったとしても両立してやるよという謎の反骨精神で半年間地獄のような日々を過ごした。

そのバーに通う時もずっとレッドブルと向精神薬、SSブロンを片手に電車に揺られていた。

記憶など、酒も相まって余計に気にしなかった。

毎日毎日、この線路に飛び込めば嫌なことはすべて終わる。と切に願って生かされていた。

その辺りから妙にリアルな幻覚と幻聴が酷くなって離人感覚が離れなくなった。

私が体から剥がれるような、けれど耳と目だけが生きていて、声と私ではない行動。もしかして?!と思い意識下で声をかけてしまった。

人同士で対話をするかのように声が返ってくる。

『私、あなたと一緒、(名前)という。』

はっとした。

病気が、病気の形態が変わってしまった。解離性健忘ではない。

〇〇、、、?

高校一年生の冬、かなり学生生活が苦しく家に帰るとがたがたの人生が見えていた現状だった。

そこに対する鬱憤が溜まりに溜まって、友達や日記に愚痴ばかり吐いていた。

悪魔のように、人を恨み、呪いを掛けるのかというくらいまで嫌悪していた。

そんな自分自身が酷く嫌だったため、直そう、というか消したいと思って理想の自分を本体へ、嫌な汚い自分を愚魔と名付けてしまった。

そこから来たと推測される。

まさか、私のためにした行動が自虐行動だったとは思わなかった。

その子は、自傷行為を主人格から引き継ぎその行為でしかストレスというものを破棄することが出来ない。

兎に角、弱くて自尊心の一ミリもない。

健忘のきっかけがこの子が出現している時間だった。やけにリアルな幻覚と幻聴は人格交代しているときの感覚だったとされる。

『自我さんが私を造り、隠し続けていた。見つけてくれてやっと私のことを認識できた。自分自身も。』

辛いときや、疲れがたまっているとき、消えてしまいたかった時、いつも出現してくれていた。

ということは、もう私はキャパシティーがオーバーしているということだ。

今では、もうゆっくり休みなさいというだろうと思うけれど、当時の自分はまだ大丈夫と信じ込んでいた。

やはり、薬の多量服薬と自傷行為が激しくなっていって、仕事もろくに行けなく病院通いの毎日。

電車に乗って病院に通っているとき、いつもの”代わってしまう”という感覚のあと、いつものモニター席へ。

ん?いつもと違う声も姿も行動も。

愚魔が出現後、すぐに新しい人格が形成されていた。

名前は、脳ちゃん。 ちゃんまでが名前だそうだ。

違うと思ったきっかけが、駅の構内や階段で妙に高揚感に浸り奇声をあげてしまう、そのような行動は目立ちたくない愚魔には出来ない。

私じゃない、というはっきりとした愚魔の声を聴きすぐに変わりたかったが、病院の診察に入っても変われなく混迷という状況に成っていた。

非常勤の当直の先生に『今はどなた?』と聞かれても脳ちゃんは『わかんない』と楽しそうな声を上げるが、私がすぐに『みんなが出ていると申した。』

愚魔は恥ずかしさと鬱陶しさで終始怒っていた。

お酒を一切飲めなかった私が、バーテンになり飲めるようになったのかと思ったが、アル中の人格がいたからだ。

それが脳ちゃんだったみたい。みかんが好きで絵を描くことも好き。

とても幼少期の人格なんだろうと思う。

純粋無垢で楽しそうな人格だ。こういう極端な人格ができるのは私自身がうまく感情や対人関係のバランスをとれなかったからだろう。

脳内、人格三人の生活が始まった。

始めはとても混乱した。

食事は当時私が食べれなかったけど、愚魔がグミが好きということでグミを食べてもらっていた。

食事も胃袋など関係ない、みんなが食べたと感じるまで食べ続ける。

生活もそうだ、主人格の私が潔癖症ということもあり救われたが一日五,六回風呂や歯磨きをしていた。

記憶の保持がうまくできていないとこうなる。

そういうことが重なってしまったので、漸くDID(解離性同一性障害)ノートを作った。

書いてくれるかと思ったが皆、気分屋なのでまちまちだ。

・二〇一九年齢十九歳

人格が三人いる中で就活を始めた。

勤務先は病院の中央材料所。医療機器の滅菌、洗浄、組み立て、運搬をする。

私は将来、医療関係に就きたい。医療機器や医療材料がとても好きだ。

将来、臨床工学技士になりたいと思っているくらいだ、楽しいだろうと思って応募したら受かっていた。

新しい仕事場は尊敬している心理士、Sさんも働いているところだ。

近くて利便性もある、気が楽な職場だった。

働き始めて、二,三カ月母親が仕事のあれこれで酷い鬱になってしまった。

鬱のコントロールが出来ず、私に降りかかってきた。 ちょうど、愚魔のメンタル状況も悪く自傷行為されないように自制を聞かせて働いていたり生活をしていたのだがその振りかざされたものですべては終わった。

向精神薬リスペリドン、六十七錠を多量服薬。

当時のパートナーに、母の嫌なところ、生活の嫌なところ、お薬手帳や住所の書いた身分証すべて預けて飲み干したそう。

すぐに、状態が悪くなり彼氏は救急車を要請。

警察と救急隊員の到着、すべて記憶がない。気が付いたのは職場のベッド。いや、患者としてだ。

心理士Sさんも悲しげな顔をこちらに向けて『どうして、こうなったの、、。』とひとこと。

眼が回っており、また生きていることを強制してくるかのように響き渡る鼓動の音。

無慈悲にも繋がれた、血液から薬剤を流す、薬剤。

そこから車椅子で移動し、タクシーにのって帰った。一日は動けなかった。きつかった。

翌日、パートナーが仕事に行くということだったので朝送っていった。その時から舌の感覚がおかしい。動かない。一部で固まって息がしにくい。

まあ大丈夫だろうと思っていたが、時間が経つにつれ喉の奥の舌から攣っていく。流石に焦ってきて調べたりしていた。

出てきたのは“ジストニア”。 薬オタクだった私からしたら一大事だった。

この副作用は、体の首から上が特に筋肉硬直するので息が出来なくなったりする。特にリスパタール(リスペリドン)はこの副作用が起こりやすい。

ドパミン作用が大きい。確かにアカシジアもパーキンソニズムもよくあった。というか毎日ある。(現在も)

急いで母に相談。眠剤を飲んでいる母は午前中起きない。

かなり焦っていた私を見て面倒臭そうに起き上がった。

『昼から、精神科(母のほう)に行くから一緒に診てもらうか?』とのこと。

長年医者をやっている、知名度と口コミも高い医者だ。行くしかない。

昼には、舌だけでなく肩や首全体的に硬直は始まっていた、その中で自転車を漕いで医者の元へ。

着いて直ぐに診てもらえた。医者曰く『時間が経てば治る、引かなかったら自身が通っている精神科に行きなさい。』と楽しそうにおっしゃった。

まあ、ここまでの医者が言っていたら、大丈夫だ治る、と思い帰宅。

汗も流したいし、筋肉温めたら楽になるのではと思いお風呂に入ったがが逆効果。

タオルで足元を拭いたら、戻れない。起き上がることも出来なくなり、とうとう肩と首が無理な場所で固まってしまい、舌も喉の奥で固定され息が出来なくなってしまった。

恐怖心でパニック、もちろん言葉は話せない。母親もパニックになりながら、心理士のSさんにそうだんしつつタクシーを呼んで精神科へ。

すぐに問診。

医者は、『薬を抜かないとだめだがこれ以上抜くために薬剤を入れれない。』と。私はパニックで叫び、母親は何とかしくれと懇願。

仕方ないと診込んだのか、点滴投与。 今までのことが嘘だったかのように楽に。疲れがどっときて倒れるように眠っていた。

終わった時には、完全に体の痛みも取れ、硬直はなくなっていた。『次は無い。』と一言忠告され、終了。

その多量服薬により、四日間は動くことが出来なかった、後遺症はいまでもある。

仕事もやめ、数カ月間無職で休み二〇一九年十一月から今のNPO法人で働いている。

精神障害者手帳も持っており、ちゃんと手続きが出来て今に至る。

仕事は、ゆったりと来させていただいている。全く来れない月もあったが今もなお優しく受け入れてくださっている。

・二〇十九年? 現在まで。

そして、家は母も仕事を完全に辞め療養の為に精神科に通い続けている。生活保護を貰いながらというところだ。

父親に関しては私に十カ月も満たないお金を預け、刑務所に行った。

これからは、お金の管理と父親の周りの人のことも考えないと、と思った

そして、零くんという男の人格と由音ちゃんという人格が増えていた。

零くんは昔からいた人格らしい、二十五,二十六歳くらいだと聞いた。

由音ちゃんは、高校生の時に頑張っていたきゃぴきゃぴした女の子だ

NPOと掛け持ちの単発バイトで生活、趣味に友達からの勧めでスケートボードを始めた。

他の東大阪の仲の良かった友達たちも始めた期間が近く、よく一緒に練習したもんだ。

その時に出会ったのが今のパートナーだ。(別記事に細かくパートナーとの出会い等を書きますか。)

母親は相変わらず、お金に飢えている。月に四,五万円は娯楽費に遣っている。

食費が無くなってもお金を形に残したい、という一心らしい。

父親のお金も、母親も遣い返すことなく私だけが負担した。その結果コロナもあり父のお金は無くなった。

父親の支払いというものは、家賃・携帯・取引先の返済・ガレージ二軒分。

このすべてを引き払わないといけないし、話をしないといけない。タイムリミットは一カ月。

五月のいっぱいでどこまでできるかじゃなくて私一人で動かないといけないと思った。

流石にできず、取引先にまずご連絡をし事情説明。とにかく嘘ついて出て行っているので驚いていた。そりゃそうだ。

なんとか取引先は終了。うまく話しを聞いてくださってうまく終わった。

家とガレージに関しては荷物があるのでどうするかと考えた。

父から届く手紙はいつも無理ばかりを記載されている。酷いと何度も訴えたことがある。

それでも現実はしなくてはならない。

まず、ガレージはほかの取引先の方に元ある荷物を引き取っていただいた。まず一軒開いた。

残りの一軒に母親が前の家に置いてきたゴミレベルの荷物があった。山のようにだ。地獄的。

そして、家のほうは同居していた方ができるだけまとめてくださっていた。それを運ぶのに一人では無理ということで親戚の頼んだ。

父に対してでなく、私の為ということなら手伝おうと快く受け入れてくれた。

そして、荷物をガレージに一時的に運んだ。今のパートナーも手伝ってくれた。本当に助かった。

一時的ということもあり、すぐに身元引受人の取引先の社長に荷物を預かってほしいと頼み込んだらそこも良いと仰ってくれた。

本当に周りの人に恵まれているのに父はなんてことをしているんだと心底落胆した。

後は、母親の荷物だけだと思ったがこれは私がしたくないと思っていた。だがガレージの家主は何とかせえと怒る。もちろんだ。

母親に説得しても私の荷物ではない。と一言。

パートナーは、とにかく鍵を置いて家を出ろ。もうしなくてもいいと言ってくれていたが私はどうすればいいのかわからなかった。

家を確かに出た。鍵も置いて。

ただ母は私のせいにしていかない。 私が行けば終わるとおもい向かった。

そうするとパートナーが。

『そんな情でも何でもない中途半端なことをするな。そんなことをするのなら帰れ。家を出た意味がない。』と激怒。

私はパニックになったが、御尤もです。の一言に収まる。

パートナーも実家から出ることになったし、新居に成ったらこれどころじゃないと。

覚悟を決めた

そんな時、母がガレージの荷物を知り合いの人を呼んで整理していた。

父の処分するつもりだった、家財道具も全部出してくれた。

そのゴミの収集が来る日七月の十四日と十五日。

ゴミの収集が早いことだったので前乗りして実家に帰宅。

その日の晩に愚魔が爆発し、自傷行為を。

マイスリーを二シート以上 多量服薬し、縫合の必要な創傷。計二十一針。

私に還った時“嗚呼、やってしまった。すべて終わりだ。”とまた思ってしまった。

救急車に運ばれてからの記憶がない。母が由音ちゃんと零くんに兎に角怒られていたらしい。

確かに愚魔はもう無理と言っていた時に、私が薬を大量に持っていた。

そのことに関して、パートナーは死ぬほど怒っていた。パートナーの友達もとても心配してきてくれていた。

こういう人たちを悲しませたり心配をかけるようなことをしちゃだめだと思った。

薬に頼らない事・薬の処方量を減らしてもらうこと・別人格の忠告や言葉も聞いていく・ちゃんと病気という自覚を持つ

そして、家をきっぱり出て自活をできるようにしていくこと。

それに邪魔するもの、事は徹底的に排除する。こと

パートナーとの新居の生活が始まった。それが七月十九日。

私の母も、パートナーの母も認めていない。

私が、害のある人間と接触していることが双方にとって反対する要因だという。

その現状をパートナーもパートナーの周りの人間も私の行動を見て無責任であり、何とも考えていない行動であると言っていた。

私の本音は、母親と縁切るのを恐れている、もし自殺してしまったら?等を考えてしまう。

そんなことをしない図太い性格と信じてはいるが恐怖心がある。母も私に似たような感情や考えで支配されているであろう。

その行動が私にとって不愉快だった。似たような行動をしてどうする?と思った。

現状は兎に角、母親のことが嫌いだ。周りの人にお伝えしたとおりに。

助けようとしてくださいっている人たちを私や母によって壊すようなことになっているのなら、今は腹を括って母と縁を切ることを決めた。

私の情報、私の人生、私の自己紹介はここまでしかすることが出来ない。

現在進行形で、人生は進んでいる。

私にとって、かなりつらい人生だけど、何とかなってくれることを祈りつつ今の生活を安定させることを一に考えて仕方なく生きてやろうと思っている。

縁を切ることで、実家の愛しい一番愛している猫に会えないのはかなり苦しい。

兎に角、私はいじめられ体質。

自分のことを発信しなくなったから。いいところもあるけれど、今もなおダメなところとして吊し上げられている。

今、そしてこれからの為に、治せるように精進致します。というより、善処致します…

ヒトのことをあざ笑ったり、見下すのも辞めないとと痛感しております、癖は怖いもんですね。

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