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生きることが必ずしも善だとは思わない。

私は明日39歳の誕生日を迎える。
今の世は当たり前のように80とか90とか生きるものだというようになっているし、挙げ句の果てには人生100年時代とかまで言うようになってしまった。

そもそも生き物は生きていることがよくて死ぬことがなぜだめなのだろう。
生は幸福で、死は不幸、忌み嫌うもの。なぜそうなのか本当のところは誰にも分からないのではないか。

私は別に自殺願望もないし、希死念慮が強いわけでもないし、鬱でもないし、ストレスもないし、辛くもないし、毎日それなりに楽しいし、孤独で孤立することもなく、いい人間関係を築いている。

メンタルも安定しているし、精神科とか薬とか一切縁がない生活だ。
だけど、私はとても大真面目に、生が全肯定されることに対してかなり疑問を持っている。

だから少子化とか、人類が滅びるとかで騒いでいることがどうも腑に落ちない。
なぜ、人間だけがいつまでも生きていられると思っているのだろうか、
なぜ人類は滅びてはいけないのだろうか。

それってかなりおこがましくて傲慢な考えだと思う。

生き物は子孫を残すことが本能だというのは理解できる。
動物はまさにそのためにだけ生きている。
だけど弱肉強食の世界だから、身体が弱かったり、捕食されたりして
生きられなくなったら親でも平気で見殺しにするし、置いていくし、
目の前で食べられていようが親自身は逃げ出すこともある。

でもなぜ人間はもう十分生きた高齢者をわざわざ医療設備を最大限に使って延命させるのか。生まれたばかりの子や幼児ならまだ分かる。
少しでもよくなるのなら、まだ未来があるのだから、最大限の医療で生きさせようとすることには無限の可能性があるし、若いちからの生命力には感動することもある。

だから一概に生きようとすることを否定することではないし、災害などからどうにかして生き延びて新たに希望を見出し、その経験からさまざまなことを盾にして強い人間になって生きていくことも素晴らしいと思う。

だけどいつまでも生きる前提でいると、烏滸がましくて傲慢になる。
老後が不安とか、安心して生きられる社会にとか、
もうそういうの本当に気持ち悪いし、反吐が出る。
安心したければ死んだらいいよ。死が一番安心安全だから。

日本人の大好物の、安心安全安定は死ぬことなのに、
多くの人間は死にたくなくて、長く生きる前提で生きていて、
そしてずっと不安とか心配とか言っている。こんなに滑稽なことはない。

生きたいのなら、長く生きる前提なら、死を全否定して生を全肯定するのなら、
それは危険と不安と恐怖を受け入れて、それが当然であるという認識を持たないと生に対して失礼だ。やっぱり人間は烏滸がましくて傲慢だ。

どうも現代人はこのことが真逆の考えになっている。
戦時中を生きた人にしかこの感覚はわからないのだろう、
そういう私も全然危機感がなく、平和で楽しくて幸せで反吐が出る。
挙句の果てには人生で幸福を追求しようとしているし、夢を叶えたいと思っている。

死が常に隣にあり、生と死は隣合わせだということも分からずに
生きるのが当たり前で、死が恐ろしいと勘違いしている。
生き物は本来死が当たり前であり、生きることはとてつもなく恐ろしい。

その勘違いで生きているからこの世界はおかしなことばかり起きている。
人類は滅亡することが当然であるのに、そのことが危機で大変なことだと騒ぎ、
この世の理に抗っている。

なんて烏滸がましいのだろう。俗物で卑しい最低の生き物だ。
生きている人間は、その傲慢さを、卑しさを、強欲さを
いいものとして肯定したいから死を否定する。死を忌み嫌う。

自死した人間を悪とし、生の素晴らしさを讃える。
そうでもしないと、死を選んだ人間の高潔さに敵わないから。
己の醜さに耐えきれないから。

死を否定しない、ということで言うと、わざわざ戦争をして無駄に命を捨てることもないし、危険な場所にいたり自分を傷つける自傷行為をしたりすることもおかしいし、それはよくないと言える。

他人を傷つけたり痛ましいこともしてはならないし、見たくないし、
理不尽な暴力や殺戮は醜悪だ。

だけど自死自体を絶対やってはいけないことで全否定することは私は違うのではないかと思う。

ここ何年かで有名人の自死が相次いだり、自殺数自体も年々増えてきているし、実際昨年は私の身近な人の家族が自死した。
私は面識がなかったから、近しい人の気持ちは分からないし、
誰も故人の本当の理由は分からない。
本当に大切な人が亡くなった経験がないからこんなことが言えるのだろうと言われればそうかもしれない。

実際もし自分の大好きな人が自死したら半狂乱になって自殺は絶対だめとか言い出すかもしれないけど、だけどそれも結局自分の都合だ。
残った人が悲しむからとか、自死する人からすれば知るかよって話だから。

私が苦しいから、辛いから、悲しいから、だから自殺はダメって
どこまで人間は烏滸がましいのだろう。
死ぬと残っている人間に迷惑がかかるから。人に迷惑をかけてはいけない。
死ぬことがよくないとされていることの理由の一つにはこれもあると思う。

私はこれに関しては迷惑かけまくっていいと思っている。だってこの世にいる人間誰も自ら望んで生まれてきていない。産む人がなんの許可もなく勝手に産んだのだから、いきなり生きてはい、これから人生をやってくださいということになってしまったのだから、死ぬときは誰の許可もいらないし、迷惑かけまくって死んでいいと思う。だって望んでいないから。望んでいないのに生きてしまって、人それぞれ期間は違うけど、生きることを頑張ったのだから。

結局生きている人間が勝手に世界を作っていて、
命を作った人、生み出した人が間違いだと思いたくなくて、だから
生を全肯定していて、死を全否定するということにして生きているものの体裁を保っているのだろう。
死後の世界もそんな人間たちが作り出したただのファンタジー、よくできたお話にすぎない。

この世界がどうしてもおかしくて、合わなくて、苦痛でたまらなくて、
ここに居たくなかった。自分の行きたいところに、自分の意志で行ったのだ。
大事で大好きな人であればこそ、その人にとって生きるという最大の苦痛を、なぜそれを与えられるのだろう。生きて欲しいと望むこと、こんな傲慢なことはない。


自死を否定する、ということはそんな故人の最後の自らの決意、望んだこと、選んだことに泥を塗り、個人を汚す最低の行為だ。

だけどものすごく辛い、苦しい、悲しい。感情は正直だ。なんでどうして、嫌だ。
生きてて欲しかった。

選んだ世界がここだったらよかったのに。
一緒に生きられたらよかったのに。だけど違っただけだったんだ。
だから否定してはいけない。行ってらっしゃい、よかったね。と。
自分に合うところ、行きたいところ、楽しいところを見つけたんだね。

私はどうやらそこではなくて、まだ違うみたい。
まだこの烏滸がましくて傲慢な生きるということ、生でいたいようだ。
今は自ら手放さないけれど、ごく自然に、失ってもいいと思っている。
どうしても生でなくてはいけないとは思えない。

だけど生でいることに甘えない。
幻想を求めず、死が当たり前だと思って生きていく。
幸福で楽しく面白く生きることは死が隣にあるということ、
崩壊や破壊、消滅が当然であるということ。
死は当たり前で生きることは奇跡だ。

そんな奇跡が当たり前なはずなどない。
全肯定されるような生やさしいものではない。
だから私は今この瞬間だけを生きる。ずっとそうやって生きる。
先があると思わない、未来があると思わない。
生きることが当たり前だと思わない。ずっと続くなんて思わない。
安心安全安定などクソくらえだ。

安心安定安全、不安なく穏やかなこと安らかに死ぬこと。そんなことは生ではない。それは死だ。終わることだ。
私は生きたいから、幸せで楽しく生きたいから、やりたいことして、
人を愛したいから。
だからこの最も愚かで恐ろしく傲慢で危険な、生を、生きるということを選ぶ。






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