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言葉と自己の関係性

※この記事は正確な表現ができていないこと、専門的な知識を欠いていることをご留意ください。

ここ最近は言葉と向き合う機会が格段と増えました。普通は人付き合いが減れば、それだけ言葉を使う機会も減っていくように思えますが、どうしてでしょうか。前回の記事で私は自己同一性についての記事を書きましたが、実はそれと関係があります。

皆さんも日常の中で自分について考える機会が多かれ少なかれ、あるのではないでしょうか。そんな時、頭の中ではどのような思考プロセスが構築されているのか。今一度、自分の頭の中の働きに意識を向けて、それを言語化してみようと思います。
私が「わたし」について思考を巡らせるとき、2つの存在は同時に活動できません。「自分を俯瞰して見なさい」とよく言われることがありますが、真の意味で自分を俯瞰してみることは不可能だと、私は思います。まず、第一に俯瞰している際に見ている”対象”である自分は、活動を停止しているように見えます。あなたは自分について思考を巡らせる時、自由意志によって働いている生身の自分を見ているでしょうか。おそらく違うでしょう。脳みそは一つしか無いのです。意識は分割できないし、主観からは逃れられません。「俯瞰する」はあくまで比喩表現です。つまり、過去(コンマ1秒前の自分も含め)の自分を省みることを「俯瞰する」と、あたかも今の自分を眺めているかのように表現しているわけです。今の自分を認識することは不可能であり、私達が認識している(つもりになっている)ものは、過去の虚栄に過ぎません。少し話がそれますが、デカルトは「我思う、故に我あり」と言いました。しかし、逆に言えばそれしか私達は分からないのです。ここに自分が居ることは分かるのだけど、それがどんなものなのかは分からない。なので、突き詰めて考えてみれば、本当に自分のことを理解している人など存在しないと私は考えています。

先天的な自分についての話をしてきましたが、人間にはもう一つ、後天的な自分というものも存在しているように思えます。つまり、生まれてから今までの経験もまた、自分の要素として存在しているでしょう。今と向き合うことはできないけれど、過去(経験)と向き合うことはできます。真実ではないけれど、ある程度は経験というデータから今の、そして未来の自分を推測することも可能でしょう。そんなデータを保存する際に役に立つ、人類最大の発明品が「言葉」です。言葉はコミュニケーションツールとしてのみ使われると考えられがちですが、実はその過程である「具現化」がかなり重要な働きをしてくれると私は思っています。先程、私は現在進行形で自分を認識することは不可能であり、私達が認識している自分は全て過去の虚栄であると言いました。では、その過去の自分というものは一体どのようなものでしょうか。

皆さん、今一度自分がどんな人間なのか考えてみてください。

言葉が浮かんできたのではないでしょうか。実際に私の頭に浮かんできたのは「怠惰」「善意」「気分屋」「承認欲求」と言った所です。私達が過去の自分と向き合うとき、そこには言葉が付き纏ってくることが多いです。そこにはどういう関係性があるのでしょう。私は少し前まで、言葉には過去の経験を思い出す際の経験と認識を媒介する役割があると考えていました。具体例をあげると
「昨日、私はとても綺麗な月を見て、そのときにある感情を抱いた。今日になってその感情を思い出そうとしている。その際に、人間は直接その感情を思い出すことができないので、「美しい」という言葉に変換して思い出す。」みたいな感じでしょうか。しかし、この理論に従えば、人間は言葉が無ければ何も思い出せないことになってしまいます。言葉にできない何かが頭に浮かんでくることもあるでしょう。そこで少し違った見方をしてみます。記憶された経験が言葉に変換されるのではなく、経験の総体を言葉が分類しているのではないか、私はそう考えました。イメージは色のグラデーションです。

これを経験の総体だとイメージしてみてください。私達は色に名前をつけます。上の画像で言うと、左側は「青色」中央は「赤色」左側は「緑色」と言った具合に、はっきりとした境界線が無いものに、自分たちの解釈で境界線を引き言葉で表す。これと同じことを経験に対しても行っているのではないかと考えました。なので、本来経験は ”経験” という総体一つのみだが、私達が言葉によって分類してあげることで初めて、それぞれに別れた経験をより明確に認識することができるのではないでしょうか。先程、私は上の画像を光の三原色に分類しましたが、もし人間がこの三色の分類しか知らなかった場合、それぞれの間にある「紫色」や「黄色」は「青色」や「緑色」に飲み込まれてしまうことでしょう。たとえ紫色(経験)という分類を知らなくても認識することは可能だと思います。あくまで、言葉は境界線を引くことしかしないため、経験そのものに影響を与えることはないはずです。しかし、ここから一つ言えることがあります。それは語彙を増やせば増やすほど、私達は様々な経験と細密に向き合うことができるわけです。「やばい」という言葉があります。この言葉の境界線はとても広いです。「幸せ」「心地いい」「楽しい」「悲しい」「辛い」「苦しい」といった言葉達がおそらく「やばい」の範囲に入るでしょう。「楽しい」という経験を「楽しい」の範囲で捉えるか「やばい」の範囲で捉えるか。どちらが良いとは言いません。ただ、私は自分の経験とできるだけ丁寧に向き合いたいと考えています。なぜなら、それが「自分」と丁寧に向き合うことに繋がっていると思うからです。先程も書きましたが「自分」には後天的なもの、すなわち経験が要素として存在します。その経験をレンズの倍率を上げていくように、細かく分類していけば自ずと「自分」がクリアに認識できる様になっていくのではないか、そう私は考えています。

これが「言葉」と「自分」の繋がりです。

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