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フラヌール(遊歩)するように会話をはじめること、本当に話上手な人は、意図的に自分を話上手に見せない

10月もラストデイ。留学先の大学の講義がはじまり、そして色んなイベントが重なり…とても濃い1ヶ月だったので2ヶ月分くらいに感じるのだけれど、詳しくは先週のショートエッセイをご覧ください。いま読み返しても良いこと書いてるなと自分でも感じます。☜

とりあえず所属スタジオがおもしろくも鬼畜の所業。いまクッソ疲労を蓄積しながら図書館でこれ書いてます。

なんとなく、留学してから2ヶ月経って感じている疑惑があります。

めちゃくちゃ主観入ってますが日本(語)だと10分で説明できることをフランスでは1時間かけて説明しているのではないかという疑惑。つまり語彙数に対して、実は大したこと話してないのでは、という暴論。笑

まー、本当によく喋るんですねこっちの人は。ひとつひとつの会話のターンが長い。日本だと嫌われるんじゃないかというレベルで長い。だから、慣れない外国語というのもあって脳に疲れる…途中で何喋っているかわからなくなる。

どうしたもんだかなーと思いつつも、同時にすごく自由だなと感じるんです。

というのも、相手の貴重な時間は奪ってはいけない、つまらない話をしてはいけない、短く面白く伝えようとする日本の俳句・短歌的精神や思考に自分がこれまで囚われていたのではという気すらしてきて。日本だと話すことと同じくらい話さないことも大事になるわけですが、こちらの人は空気を読む・察してくれるなんてことはないので、自分ももっと周りを信用して(話は一旦聞いてくれるので)、だらだら話していいのかもしれません。

歩行それ自体が発話である的なこと言ったのはフランスのミシェル・ド・セルトーですが、こっちには「フラヌール(遊歩)」という言葉があるように、だらだらとフラヌールするように会話することが、フランス現代思想を支える哲学的な考えを育んでるのかもしれん。

先日、藝大の先生と面談したけれど、やっぱり「面談」になってしまうんだよなぁ。アポを事前に取って40分きっかりに収めてしまう。内容としては色んな話題にジャンプする「雑談」ですごく良かったですけどね。いつも思うのは、創作のアイデアは、こういうとりとめもない会話から。自分が1ヶ月講師をやった時も、教えるというよりは、雑談することを心がけていました。

プレゼン得意な自負あるし、冒頭でまず相手の心を掴むキャッチーなワードや意外性のある話題から…みたいなのはそれこそ欧米式の垂直型思考に囚われているのではという気もします。海外のアートワールドって作品良くてもプレゼンクソやったら詰みみたいなイメージあるから焦って話してたかも。

パリの人たちこっちの話にちゃんと耳を傾けてくれるので、まず時間かけて自分の雰囲気作って、ゆっくり話はじめること試してみよう。実際昨日のプレゼンでは、あまり時間を気にせず、喋ってみました。そしてみんなから作品に対して意見が出る。意見というよりは、「こんな話があって〜」と自分の話をする人もいるんだけど、それはそれで面白い。

それと数年前から「話は上手すぎてはいけない」という考えが自分の中にあり、それは、ある程度の話の上手さってテクニックで身につけられるものだと思うんですね。もちろんプレゼンが上手なことは社会を生きていく上で必要ですが、そうしたテクを多用すると聞き手の心理をコントロールできてしまう恐れがあります。ヒトラーの演説とかね。映画をプロパガンダとして利用していたとか。

フランスのレトリックの豊かさはスペクタクルを回避しようとするものなのかもしれません…さすが革命で勝ち取ってきた国…。

本当に話上手な人は意図的に自分を話上手に見せない(見えない)と思うんですね。こういうスペクタクルや人をコントロールしてしまうことに関して細心の注意を払ってるはずですから。「話が上手ですね」と言われているうちは全然まだまだ。テクが先行しているのだから。日本語ネイティブに「日本語上手ですね」と言わないのが当たり前のように(逆にあなたが外国人から「英語上手ですね」と言われたらそれは上手ではないということ)。

昨年から問いとしてある「アートの遅さ・つまらなさ・退屈さ」は、非常に重要なんだと。ナチスが当時の美術作品を「退廃芸術」と烙印づけて強奪・破棄したのはそういう理由もあるかも。あくまで個人の考察ですけどね。

さてさて、ここからは個人の制作の話。先日、とあるパフォーマンスをパリの路上で決行しました。スチール写真等や、どのような形で制作を進めているか限定ゾーンで公開。

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