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ここに、最高の人生讃歌が鳴り響く。劇団四季『ノートルダムの鐘』を考察する

答えてほしい謎がある 人間と怪物
——どこに違いがあるのだろう?
(劇中ナンバー『ノートルダムの鐘』より抜粋)

はじめに - この記事を書いている人について

美術ライター・さつま瑠璃のもう一つの顔、それは劇団四季の大・大・大ファン。
小学5年生のときに『ライオン・キング』を見て以来、ミュージカルの虜。高校時代には神奈川の田舎から1人で浜松町まで足を運ぶようになり、19歳の歳に晴れて自分の名義で四季会員に。

そんな私が猛プッシュしている傑作『ノートルダムの鐘』。大好きすぎて3回観た。
四季を愛して早10数年、公式サウンドトラックをBGMに鐘ワールドを語ります。
※ラストシーンを含むネタバレがあります。ご注意ください。

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1. Olimからメインテーマ - 序章に秘められた謎

オープニングナンバーの「遥か昔ここで」の歌詞に合わせて、タンバリンの音が鳴る。ジプシーの女・フロリカの登場を予感させるよい演出だ。
のちに『息抜き』の「お嬢さん 聞いて」でもタンバリンの音が入り、直後にエスメラルダが登場する。

クラシカルな交響楽は荘厳な大聖堂を連想させ、対照的に『酒場の歌』『奇跡御殿』で使われるタンバリンやギターの音色はジプシーのイメージなのだろう。

では、その劇世界に響く“鐘の音”とは何か。「二人は育つ 鐘を聴きながら」で、クロード(=フロロー)は朗らかに歌い、ジェアンは忌むように耳をふさぐ。“鐘=信仰・神の教え”と捉えると、クロードにとっては尊いもの、ジェアンにとっては拘束と不自由、というように解釈できる。

2. 燃え盛る炎が意味するもの - エスメラルダの考察

『トプシー・ターヴィー』でフロローだけが歌う「まるで炎」は『地獄の炎』の伏線とも言える。一方で、『エスメラルダ』の曲中でフィーバスもまた「松明は語る 彼女のように」と歌う。フロローとフィーバス、それぞれにとって “エスメラルダとはどんな炎なのか” その対比が見えるようでおもしろい。

ちなみに曲順、『天国の光(Heavens's Light)』のあとに『地獄の炎(Hellfire)』が続くのも対照的な表現となっている。

3. 複雑な親子関係 - フロローとカジモド

カジモドの伯父・フロローは真面目かつ厳格で、大聖堂で育った孤児という複雑な生い立ちから「導く」と「支配する」と「愛する」が混濁している。肉親の「愛」を知らずに、厳格な神父のもとで教えとともに生きたことを考えると彼も憐れむべき人なのかな、と思うけれど、それならフロリカを愛し、子をもうけた弟とはどこで違ってしまっただろうとかなしい。結局フロローは断罪されて然るべきヴィランズとして描かれてしまった。

フロローにとって「正しく生きる」とは、教えに従うことで食べ物や住処を得られることを意味し、もし背けば生きることさえできなくなるかもしれない。だからこそ遊び好きのジェアンを心配し、正さないことに失望していた。

エスメラルダに対し恋心を覚えたカジモドには、「父親のようになってはいけない」と叱責する。この場面でのカジモドは異様なまでに怯えている。フロローは宗教教育にあたって、カジモドの父=ジェアンがいかにして死んだかについて語ったのだろうか。実の弟を「邪悪だった、弱かった」と言い切る彼はまさに怪物、しかしながら彼を怪物にしたのは何だったのか、ということについて観客は向き合わざるを得ない。

4. 夜明けを願う二人 - エスメラルダとフィーバス

『奇跡もとめて』の「今気づいたわ」は本作の中でも屈指の難台詞だと個人的には思っている。それと、エスメラルダがフィーバスを好きになった箇所は「誰かが助けてあげなくちゃ」なのではないか、とも思う。自らも恵まれない境遇に立ちながら、他者のために祈る(『神よ 弱き者を救いたまえ』)彼女の生き方に通じる、フィーバスの本質に触れた象徴的なシーンだ。

終盤で隊長の地位を捨て、「立ち上がれ 正義のために」と歌うフィーバス。エスメラルダが信じて待ち望んでいた「正義の夜明け」がここで回収される。フィーバスさんまじかっこいい
そして正義とは、邪悪の対義語でもある。

5. 石像、ガーゴイルとは何か - 神の関連性について

「石像の視線を感じた まるで神が見ているように」
冒頭で、赤子を投げ捨てようとするフロローは咎めるような石像の目を感じて思いとどまる。対して、終盤でフロローを投げ飛ばそうとするカジモドに石像たちは「いや、君はその気だ」と促す。

「石像と話していた」というカジモドに対し、「石像は喋らない」と諭すフロロー。このときフロローは、《石像が喋るのはカジモドの想像であり、人工物が喋るはずがない》と考えているのだろう。
両者の考える石像の在り方は異なっている。

「石の聖人よ 守護神とガーゴイル」という歌詞から、石像は守護神のようにカジモドを導き助ける存在と考えられる。カジモドの身を常に案じ、「隠れなきゃ」「話しかけるんだ がんばれよ」などと助言し支える石像たち。
一方で、エスメラルダの魔除けについて「ただの糸と石だ、何の意味もない」と後ろ向きな発言をすることもある。常に正しいことを伝える客観的な存在ではなく、カジモド自身の内面の対話とも捉えられる。

石像(聖アフロディージアス含む)の「導き」と、フロローの「導き」。本当に正しい導きとは何か。

6. 還るべき場所 - ここは君のうち

「ここは君のうちだよ」「私の、うち……」

追われる移動民族で母国を持たず、安住できる家もないエスメラルダの「家(うち)」。そう考えると深い台詞。しかし彼女は、「ここにいればいいよ。永遠に」と促すカジモドに「永遠にはいられないと思う」と告げる。彼女にはジプシーの仲間がいるし、命の終わりが近づいている状況。加えてフィーバスを愛するからこそ、カジモドと「永遠に」はいられない。
だから、「あなたは本当に素敵な友達よ」と言う。

切ないけれど、「ここに住んでもいい」と下心満々で言ってきたフロローと違い、カジモドは純粋にエスメラルダを思い遣って言ったからこそ、優しさが伝わり、「友達よ」の台詞に繋がったのではないだろうか。

7. 抑え難き衝動と怒り - フロローの死

エスメラルダの死後、「死んだのか」冷淡に言うフロローに「お前のせいだ」と言うカジモド。「ご主人様」から「お前」に呼び名が変わる。

「愛? お前に愛の何が分かる。人を愛したことがあるのか」

それまでの無垢な少年のようなカジモドから出たとは思えない台詞。「聖域?」「導く?」フロローの言葉一つ一つを確かめるように問うこのシーンは、さながらフロローと神との対話を想起させる。

フロローの死後、カジモドは「僕の愛した人は、みんな横たわっている」と呟いて号泣する。フロローがカジモドに向けていたのは本当に「愛」だったのか。それでも、カジモドはフロローを愛していたのだ。悲しすぎる。

このクライマックスは演じる俳優さんによっても表現がかなり異なるようなので、色んな組み合わせのキャストさんで何回も観てみると面白いだろう(沼)。

まとめ

ファミリーも楽しめる『リトルマーメイド』、煌びやかなショー作品『アラジン』に続く新作ディズニーミュージカルは、大人の魅力溢れる異色の作品となった。アニメ版は児童向けに脚色され、シリアスな表現は少なく結末もハッピーに書き換えられている。対して舞台版は、ヴィクトル・ユーゴーの原作を忠実に再現した文学的な作品に仕上がった。

当時のフランス文化やジプシー、道化の祭、キリスト教に関する周辺知識を含めると、このテクストはさらに深く読み解けるだろう。大人の研究心を刺激する『ノートルダムの鐘』、魅力がいっぱいだ。

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