会えないあなた [短編小説]
「もう、いったい何なのよ」
薄曇りの午後、秋風に吹かれながら気持ちよさそうに庭の草むしりをしていた弘美さんが、急に頭を振りながら駆け戻ってきた。耳の横で両手を振りまわし、何かを追い払おうとしている。
「どうしたんですか?」
訊ねても、彼女にはちゃんと聞こえていないらしい。ちぐはぐな動きは、紐の絡まったマリオネットみたいだった。
「もう秋なのに、何でこんなにやぶ蚊がいるの?」
奇声を発しながら、弘美さんが庭に面したアルミサッシの窓から飛び込んでくる。よく見ると、肌を出していた腕や首筋には、蚊に刺された痕が無数にできていた。まるでゴーヤーの表面みたいだ。皮膚の至る所が不規則なでこぼこになっている。ぱっと見ただけでも、尋常な数ではない。
「真奈美ちゃん、キンカン持ってきて」
けたたましい声に、私はすぐ薬箱を置いてある場所へと走る。今日は一人しかいない利用者の中島さんが、その様子を面白そうに眺めていた。
「何だい、血を吸われたのかい?」
「吸われたなんてもんじゃないわよ。もう貧血になりそう」
「蚊が食いつきたくなる程いい女だってことだよ」
中島さんは、この夏で八十歳になったばかりの利用者だ。まだ症状は要支援2だから、こういう冗談話もしっかり出来る。立ちあがったり、歩く時に支えを必要とすることはあるが、トイレや食事はほとんど自分一人でできた。それでも、スタッフが一人だけでは何が起きるか分からない。だからデイサービスのシフトは常に二人で組まれている。
「血を吸うのはメスの蚊だけなのよ。女に好かれても全然嬉しくないわ」
弘美さんの話はいつも面白い。若者にうけるかどうかはわからないが、高齢者向けのユーモアとウイットに富んでいるのは確かだ。案の定、中島さんは愉快そうに、腹を抱えて笑っていた。
抱えてきた薬箱からキンカンの茶色い瓶を取り出すと、それを弘美さんは勢いよく引ったくる。そして、あのスース―する独特の匂いを漂わせながら、腕や首筋のこんもりと腫れあがった場所に塗りだした。それどころか、人目もはばからずにシャツを捲り上げてお腹のまわりまで塗っている。いくら部屋にいるのが女ばかりとはいえ、事務所に繋がった監視カメラも取りつけられているのに、そんなことはお構いなしだ。
「身体に塗るなら、洗面所に行ったほうがいいですよ」
さすがに見かねてそう忠告したが、「日曜日に事務所でモニターを見ているような暇人なんていないわよ」と、もともこもない事を言う。それでも嫌な感じは微塵もしない。一年前に介護の仕事を始めたとは思えない程、いつも彼女は活き活きと働いている。
中島さんがトイレに立ったので、その導線が危険でないかだけ確認してから、私はまだキンカンを塗り続けている弘美さんに思い切って聞いてみることにした。
「弘美さんって、彼氏はいるんですか?」
やはり唐突な質問だったのだろう。キンカンを塗る手が止まった。まじまじと見つめられて、私の方がどぎまぎと視線をはずす。
「急にそんなこと訊くなんて、どうかしたの?」
また塗りはじめた気配がしたので視線を戻すと、目だけは動かさずに私を見ていた。こうなると観念するしかない。
「弘美さんって、いつも活き活きしてるじゃないですか。利用者さんのことも全力でケアしてるっていうか、人当たりが優しいし。だから凄いなって思って…」
「それと彼氏がいるかいないかが、何か関係あるわけ?」
「いや、やっぱり好きな人がいると、パワーが出るんじゃないかと…」
いつものことだが、話しているうちに理屈が通っていないことに自分で気づいてしまう。ほんとうは単純な興味から彼氏がいるか訊いてみたくなっただけなのだ。だが、改まってなぜそんな質問をするのかと問われれば、あれやこれやと理由をつけてしまう。我ながら悪いクセだと思った。
弘美さんは、私のちぐはぐな答えにふーんと鼻を鳴らしたまま、ずっと黙っている。そのうち、トイレに行った中島さんが戻ってきて、質問は有耶無耶になってしまった。
思っていた以上にやぶ蚊の被害にあっていた弘美さんは、瓶に三分の一ぐらい残っていたキンカンをほとんど使いきってしまったようだ。やっと痒みがおさまってきたからと、おやつの用意を始めた。
このデイサービスでは親会社がカフェも経営しているので、昼食やおやつの質が高い。今日のおやつはシフォンケーキ。スポンジよりも柔らかいふわふわのケーキを皿に移し替え、生クリームを添える。利用者が一名なのはとても珍しいので、たっぷりオマケをした。
生クリームが好きなお年寄りは意外と多い。考えてみれば、昭和の貧しかった時期を生き抜いてきた人たちなのだ。かなり認知症が進んだ人でも、子ども時代の思い出を訊くと、割と正しい記憶で話してくれる。さつま芋や大根ばかり食べていたという人もいれば、それさえ満足に口に出来なかったという人もいた。そんな貧しい子ども時代を経て、終戦後の復興期をがむしゃらに働いてきたのだ。食べることに対して感じる思いは、きっと平成生まれの自分とはずいぶん違うのだろうと思う。だからお年寄りには、いつまでも美味しいものを食べて欲しかったし、それを積極的にサービスとして取り入れている会社の方針には素直に共感できた。
でも、結局のところ、私は共感どまりでしかない。おやつひとつにしても、弘美さんは手際よく、それでいて思いやりいっぱいに用意をする。ささっと残り物の板チョコの一かけらを添えてみたり、他のスタッフはやらないことを率先してやった。
今日の利用者の中島さんは餡子が好きなので、仕事が終わった後に食べようと買っていた餡パンをちぎって生クリームの横に置く。もちろん、そんなサービスをしろとはスタッフ向けのマニュアルのどこにも書かれてはいない。むしろ禁止されている類のことだ。だが、弘美さんがやる分には誰も文句は言わない。弘美さんを見ていると、そんな些細な行動まで彼女の強い意志が働いていると感じるからかもしれなかった。
「好きだった人はいるけど、彼氏はいないよ」
中島さんがおやつを食べ始めてすぐ、お盆を片手に台所へ戻ってきた弘美さんが、そう言った。自分がした質問なのに、その答えだとすぐには気づかず、一瞬ぽかんとしてしまう。
「前にここで一緒に働いてた人。一度別れた奥さんと復縁したんだ」
話している弘美さんは、特に哀しそうだという表情でもない。
「介護の仕事はね、その人が全部教えてくれたの。ルール違反も含めて」
流しにたまった食器をスポンジで洗い始めた弘美さんは、そう言って笑った。
介護の職場は、なぜか人の出入りが激しい。たくさんの人がそれなりの志を抱いて勤めながら、その多くが短い期間で辞めていく。その都度わずかに残った人たちが、職場の守り人になっていくのだ。このデイサービスでは、弘美さんと准看護士の資格を持っている社員の佐々木さん、パートで入っている主婦の数人がシフトの中心になっていた。
私がここで働くようになったのは、まだ一か月ぐらい前のことだ。もうすぐ二十八歳の誕生日を迎えようというのに、ずっとフリーター暮らしをしてきた。そんな生活を一新しようと思い立った時、ウエイトレスのアルバイトとして入っていたカフェの社長に紹介されたのが、このデイサービスだったのだ。ずっとただのコックだと思っていた社長が、手広く多角経営をしている実業家だったと、その時に初めて知った。
雇用契約は社員だから、今はカフェとデイサービスの両方で働いている。その上、今後は営業もやることになるらしい。この地域のケアマネージャーを訪ねて、利用者を集める。今はそのための研修のような形で介護の現場に携わっていた。
「真由美ちゃんは、誰か気になる人がいるの?」
食器を洗う弘美さんの手元を見ながらぼんやりしていた私に、急に矛先が向いた。驚いて顔をあげると、弘美さんの目が真っ直ぐに私を見ている。
「人の彼氏が気になる時は、自分が悩んでる時だったりするよね」
やっぱり弘美さんは勘が鋭い。というか、いつも人の心の内側を見ようとしているから、敏感に感じてしまうのかもしれなかった。利用者さんがやってほしいと思うことを察知して、さり気なく手を差しのべるように、今、私に言葉をかけてくれているのだと感じた。
弘美さんは私よりひとつ年下だが、今は同じ27歳だ。呼び捨てでいいと言われたけれど、どうしても「さん付け」で呼びたくなるのは、こういう人柄だからということがあるかもしれない。
「実は、そうなんですよ…」
図星をつかれて、話そうかどうしようかと迷いながらも、遠回しに投げかけられた質問に答えてはみた。
「今日、帰りにラーメンでも食べようか?」
弘美さんは、中島さんの様子を気にしている。そろそろ、おやつを食べ終わっていそうだった。新しい湯呑に緑茶を注いで、弘美さんが利用者用のテーブルに向かう。私の横を通り過ぎる時、さり気なくぽんぽんと肩を叩いた。その手のひらの柔らかな感触に、急に涙が出そうになる。弘美さんが歩いていく足音を聞きながら、私は食器乾燥機のスイッチを手早く乾燥のみにセットして、スタートボタンを押した。
◇ ◇ ◇ ◇◇ ◇
誰かに恋愛の相談をするのは久しぶりだった。気の置けない親友にも、これまで好きになった人の事は、ほとんど話したことがない。だから、学生の時も「真由美は秘密主義だよね」と陰で噂している同級生が何人もいた。
自分としては、ことさら隠したいわけではないのだが、特に話したいわけでもない。相談するような悩みの時期は限られている。つき合いはじめる前と別れ話が持ち上がった時ぐらいだ。
つき合いはじめる前は、相手の本心を推し量るのに精一杯で、人に相談している余裕などなかった。別れ話の時は、たとえ関係が途絶えても、一度結んだ縁を断ち切ってしまう気になれないから黙っている。そういう思いは、人に話してもなかなか理解されないことを知ったからだ。
一度、元カレとも友達づき合いを続けていると親友に話したら、正気なのかと呆れられた。私からすると、簡単に人との縁を切り捨てられることの方が疑問だ。未練がましいとか、重いとか、さんざん酷いことを言われてからは、誰にも話さなくなった。
今、気になっている男性も、実は以前つき合っていた彼に影響されたゲームが縁で知り合っている。どちらかというと外へ遊びに行くより部屋でゲームにふけっているのが好きな私は、元カレが夢中になっていたオンラインゲームを、別れた後になって始めたのだ。
〈パーティを組みませんか?〉
ほとんどソロでばかりモンスターをハンティングしていた私に、その人はチャットで話しかけてきた。今から二ヶ月ほど前のことだ。
ネットを通じて見ず知らずの他人と気軽に遊べるのがオンラインゲームの醍醐味ではある。だが、基本的に私は「野良」と呼ばれる行きずりのユーザーとは遊ばない。神聖なゲームの世界に、出会いを目的に参加して、女性と見れば気安く声をかけてくる男たちがいる。そんな「出会い厨」のユーザーたちが正直気持ち悪かった。だから最初はその人からの誘いも無視していたのだ。
だが、何度目かに声をかけられたその日、一度ぐらい誘いに応えてもいいかと気が変わった。ちょうど介護の仕事を始めた頃だ。新しい職場での不慣れな仕事ということもあって、蓄積されたストレスが半端ではなかったのも一因だろう。好きなゲームの世界で、ソロでは倒せなかったモンスターと思う存分闘いたいと思ったのだ。
パーティを組んでみると、彼が軟派な出会い目的の輩ではないとすぐに分かった。それどころか、私の知らない事を何でも知っていて、装備を整えるのに必要な素材の集め方から、負けないための戦い方、効率的な罠の張り方など、色々なことを教えてくれる。はじめは、わざわざ見ず知らずのヘタクソに指導するなんて、なんて物好きな人だろうと思っていたのだが、やがて時間を割いて丁寧に教えてくれる彼を「ハンターの師匠」として尊敬するようになった。
そのうち、ゲームには関係のないお互いの話もボイスチャットで交わすようになる。正直、それまでリアルな世界で出会った誰よりも心魅かれた。
彼が鎌倉に住んでいることを知ったのが二週間前だ。毎日、現実の友人以上に長い時間のやり取りをしていた。すっかり仲良くなったと思った私は、思いきって「会いに行ってもいい?」と訊いてみる。すぐに返ってきた彼の返事は「待ってる」という快諾だった。
「それなのに、彼とは会えなかったの?」
弘美さんが、ラーメンの煮卵を美味しそうに頬張りながら質問してきた。
デイサービスの一日が終わり、本当は5時であがるはずだった弘美さんは、戸締り役の私がするはずの掃除まで手伝っている。お腹ペコペコと言いながら頼んだ大盛りの塩ラーメンが、すでに半分ぐらいになっていた。話すのに夢中で、私はまだほとんど手を付けていない。
「あっ、ごめん。食べながらでいいからね」
そう言うと弘美さんは、厨房の店主に追加で餃子を注文した。
「一緒に食べるよね? ここの餃子、美味しいから」
太ることなど気にしない素振りで弘美さんはどんどん食べる。考えてみると、こうして一緒に外食するのは初めてだった。
デイサービスの最寄り駅近くにあるこのラーメン屋は、以前社長が連れてきてくれた店だ。小田急線新百合ヶ丘駅は昔に比べてずいぶん開けたが、そうなる前からこの店はあった。社長は高校生の頃からよく食べに来ているという。弘美さんに教えたのは、彼女が好きだった人らしい。その人が社長と同級生なのだと知って、弘美さんがものすごく年上の人を好きだったのだと気づいた。
「もともと会えない理由があったのかもね」
私がしばらく黙りこんでいると、また弘美さんが水を向けてくれた。ついでに空になったコップに水を注いでくれる。話しっぱなしで渇いた喉を潤しながら、少し頭の中を整理した。少なくとも、鎌倉に会いに行くという私の言葉には、本気で喜んでくれていると感じた。弘美さんが言うように、もともと会えない理由があるなら、もう少し反応が違ったのではないだろうか。
日曜日の鎌倉駅は、待ちぼうけに堪えるには辛い。デートに来たカップルで溢れていた。まだ残暑が厳しくて、おしゃれな店の前には、ちょっと季節遅れの向日葵が咲いているカフェもある。
お互いがどんな顔かは、事前にメッセージで画像をやり取りしていた。二歳年上で、横浜にある会社に勤めているという。業種は観光関係。ツアーの添乗員として、海外にもたびたび行っているらしい。ネットでのやり取りではあるが、嘘だとは感じられなかった。
だから、私も正直に自分の状況を話している。不思議なもので、現実の友人に話すよりもハードルは低かった。
「その人も、真由美ちゃんに会いたいと思ってたんだろうね」
レンゲでラーメンのスープを口元に運びながら、弘美さんが言う。
「その瞬間までは、ゲームのキャラクターに成り切っていたのかも」
スープを飲む間、少しの沈黙があった。そこまでキャラクターに成り切れる人がいるのだろうかという疑問が湧いてくる。
「そのキャラクターが、一番正直なその人自身だったのかもしれない」
まるで私の心の中を見透かしたように、弘美さんはつぶやいた。
「彼は、あれ以来ゲームをしていないみたいです」
「そういうのって、分かるの?」
「ええ、フレンドになってるから」
「じゃあ、まだメッセージとかは送れるんだ?」
「はい」
また、ふーんと鼻を鳴らしたまま、弘美さんは店自慢の細めの麺を啜りはじめた。他の客の啜る音との不協和音が、狭い店内に響く。店員が大きな鍋の蓋を開けて豚骨やらなにやらの入ったスープをかき交ぜはじめたので、厨房からカウンターへと湯気があふれてきた。
「じゃあさ、次の休みに、もう一度鎌倉に行くから会おうって誘いなよ」
一瞬たちこめた湯気の中で、いきなり弘美さんは箸を止め、私の肩を叩きながらそう言った。
「真由美ちゃん、心の中ではもう決めてるじゃん」
そう言うと弘美さんは、また麺を啜りはじめる。麺を口に入れては噛み、飲み込んでは、少しずつ言葉を繋いだ。
「一度も会ったことがない人に、どうしてこんなに心が魅かれるのかって悩んでるんでしょう?」
継ぎはぎだらけの言葉を理解するのに骨は折れたが、弘美さんの言うことは全て的を射ていた。ネットの世界は男でも女だと嘘をつくことができる。話してくれた年齢も送ってきた画像さえも、全くの出鱈目かもしれない。
だが、ふたりで語り合った時間の長さが、どうしてもそういう疑念を否定してくる。たとえ会ってはいなくても、その間に交わした些細なやり取りが、私にはすべて真実としか思えなかった。
「人ってさ、考えすぎると否定的にしか答えを出せない生き物らしいよ」
最後まで残していた好物のチャーシューを頬張りながら、弘美さんは、好きだった人の受け売りだけどねとつけ足してウインクした。
その姿があんまり格好良く決まっていたので、私は思わず残っていた自分のチャーシューを弘美さんの丼に放りこんだ。
「おお、ラッキー」
すかさず箸でつまみあげると、弘美さんはそれを口の中に放り込む。訳もなく嬉しくなってくる。私たちのハイテンションなはしゃぎっぷりに、隣に座っていた客が怪訝な目を向けてきたが、どうだって良かった。とうとう弘美さんが生ビールを頼んだ。飲む前からハイテンションなのだから、先が思いやられる。それでも拒む気にはなれない。私も中生を頼んだ。
少しぐらい酔った方が良い気がする。そして今夜、部屋に帰ったら、いつもより長いメッセージを送ろう。飲めば、迷っていたことが、きっと馬鹿らしい気分になってくるはずだ。たまには女二人ではめをはずしてみよう。
そう思った矢先に、隣でパチンと手を叩く音がした。驚いて横を見ると、弘美さんが腕を叩いている。
「信じらんない、こんなとこにも蚊がいたよ」
店にはカウンターが埋まるほど人がいるのに、弘美さんだけが蚊の餌食になるのはどうしてだろう。
「心が綺麗な人の血は美味しいのかもね」
弘美さんは、また私の心を見透かしたように、そう言った。その手には見覚えのあるキンカンの瓶が握られている。
「それって、勝手に持ってきちゃったんですか?」
驚く私に向かって、人差し指をくちびるに当てた弘美さんは、またウインクする。
「だって、もうちょっとしか残ってないし」
心の綺麗な人と訊いて納得しそうだったが違うようだ。弘美さんに似合うのはバイタリティという言葉だろう。久しぶりに、お腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「真由美ちゃんも蚊につきまとわれるぐらいじゃないとね」
「それって、どういう意味ですか?」
エンジンがかかってきてしまった弘美さんは手に負えない。時々けん制しておかないと言いたい放題言われてしまいそうだ。
「まあ、時には自分から蚊に血をあげるぐらいの優しさがないと、立派な介護士様にはなれないってことよ」
半日も蚊の被害を嘆いていた人からは言われたくない。そう呆れ顔で言い返すと、まだまだ人の心がわかってないねとキンカンの匂いがする手で頭をぽんぽんされた。少しイラっとしたが、本心から嫌ではない。今度蚊を見かけたら、黙って血を吸わせてみようかと思った。そう思うだけで腕がむずがゆく感じた。
◇◇ ◇◇◇ ◇ ◇
時間はあっという間に流れていった。ここ数年、秋の記憶が少ない。夏が終わるのを待っているうちに、すぐに冬が来てしまった印象がある。駆け足で通り過ぎていくようになった秋は、今年も一段と速度を増した感じだ。
ラーメン屋で弘美さんと語り合ってからひと月半の時間が過ぎ、私は無事に二十八歳の誕生日を迎えた。十一月の風はもうだいぶ冷たくて、街中でも落葉樹の紅葉が美しい。地域のケアマネージャーをまわる営業の仕事にもだいぶ慣れて、デイサービスにも利用者が増えている。
営業が忙しくなってきたので、今はデイサービスのシフトに入るのも週二日程度だ。弘美さんと顔を合わせる機会もめっきり減ってしまった。おそらく月に二回ぐらいだろう。それでもたまに一緒になると、帰りは必ず例のラーメン屋に寄った。
さすがに晩秋ともなれば、弘美さんが蚊の餌食になる事もなくなったのだが、世の中には悪い虫が思いのほか多いらしい。弘美さんが介護の仕事に就く前につき合っていた男が、居場所を探し当ててやってきたそうだ。パートさんの話によると、いかにもチンピラ風の男だったらしい。
幸い今の弘美さんにはそんな男が付け入る隙は微塵もなかった。彼女の過去をネタに金を脅し取ろうと目論んでいた男は、すでに弘美さんから昔のことを全て聞いていた社長の手配で、二度と近所をうろつけない目にあったのだという。さすがに地元に根をおろした実業家だけあって、その筋にも良く顔が効くらしい。中年太りのおじさんにしか見えない社長だが、改めて逆らうのだけはやめておこうと肝に銘じた。
「昔はダメな男ばっかり引き寄せる体質だったみたいでね」
ラーメンを啜りながら、ことの顛末を弘美さんから聞いた。介護士になる前の弘美さんについて知ったのはこの時だ。アパレル関係の仕事に就き、ヒモのようなダメ男と暮らし、気づいたら夜は風俗でも働くようになっていたのだという。
話を聞いて、辛い過去があったから今の弘美さんがいるのだと気づいた。そして、同じように苦しい過去を持つ利用者の老人たちの顔が浮かぶ。弘美さんがお年寄りたちに寄り添えるのは、そんな過去の傷から、感じあえるものがあるからなのだろう。
誕生日を前に、私も小さいながら心の傷を負った。例のオンラインゲームで出会った人についてだ。
もう一度会いましょう。結局、九月の下旬から、そんなメッセージを三回送った。三週間、返事もないままに鎌倉へ通い続け、いつも待ち合わせは空振りに終わる。四度目のメッセージを送ろうとしている時になって、やっと返信が来た。
〈どうか私のことは忘れてください。あなたに嘘をついていました。許してほしい。北野純一郎〉
短いメッセージだった。もしかしたらとフェイスブックで名前を検索してみたら、鎌倉在住の男性がヒットした。年齢は登録されていなかったが、写真を見るとかなりの高齢だと分かる。盲点だった。オンラインゲームを上手に出来るのは若者だけだと思い込んでいたのだ。
その人のフェイスブックの設定では、友だちになっていなくてもアルバムを見ることが出来た。たくさんの写真の中に、私がもらった画像に似た顔がある。家族の集合写真だった。老人を囲むように、何世代かが集まっている。老人によく似た30歳前後の男の顔があった。きっと、孫か何かなのだろう。もしかしたら、この人が自分の祖父の名を騙っているのではないかという思いが浮かび、慌ててその考えを打ち消した。年齢や性別に嘘偽りがないのなら、会わないという選択の理由が、それこそわからない。例えば既婚者であったとしても、会って話をすることにそれ程の躊躇いがあるだろうか。
会いたいと思った。会って直接話がしてみたい。ショックだったのは確かだったが、改めて彼とのやり取りを思い出せば、ゲーム以外の事でも学べたことが多かった。仕事についての悩みも、日常生活に必要な知恵も、ゲームという世界を通して語ってくれたからだ。
年上だろうとは思っていたし、実際メッセージでは二歳年上だと言われてもいたが、こうして一つひとつ思い起こせば、どう考えても同年代にしては老成しすぎている。気づかなかった自分の方が未熟だったのだ。
弘美さんが言っていた通り、ネットの中でやり取りしていた時の老人は、きっと偽らざるその人自身だったのだと、最後のメッセージを読んだ時に思えた。きっと心を痛めていたことだろう。諦めずに行動し続けた分だけ、逆に自分が受けた傷は浅かった気がする。時に嘘は、つかれた側よりついた者の方に痛みを与えるものだ。
とにかく忘れようと思った。そう思ったところで忘れられないことは分かっている。ただ、北野純一郎というこの老人の気持ちに、ちゃんと応えたかった。フェイスブックのブックマークも解除して、もう追うことはやめた。
人生の中に、永遠の謎がひとつぐらいあっても良いだろう。恋愛は成就しなかったけれど、そこに確かな人と人の繋がりがあったことだけは確かだった。はっきりと理由は言えないけれど、それがとても嬉しい。
「真由美ちゃんは、立派な介護士になれるよ」
結果を弘美さんに報告したら、優しくハグしながらそう言ってくれた。でも何かがおかしい。肩が小刻みに震えている。どうしたのかと訊ねたら、高齢者に本気で惚れられる二十八歳の乙女は貴重だものと言ってペロリと舌を出した。しばらくの間は私がひとつ年上だから、そのうち遠慮なく「弘美ちゃん」とか、思い切って「弘美」と呼び捨てにしてやろうと決めた。
今日もデイサービスの現場では、リアルな日常が繰り返されている。晴れた日には、弘美さんが必ず庭の手入れをしていた。営業の行き返りに、その姿を見かけるだけで不思議と元気が湧く。仕事が楽しくて仕方なかった。
彼氏なんてものは、縁があればそのうち出来るだろう。たくさんの出会いの中で、やがてお互いを見つけ合える日が来るはずだ。そう思いながら見上げた青空に、真っ直ぐな白いひこうき雲がのびていった。
※この物語は『紫陽花の咲く庭』の連作短編となっています。小田急線新百合ヶ丘駅が最寄り駅の、でも駅からはバスで二十分程かかる住宅地にある高齢者のデイサービスを舞台にした物語。実は『来年の夏も二人で』という短編も、別のお話で繋がりが見えてきたりします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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