見出し画像

来年の夏も二人で [短編小説]

 睦美が最初にその青年を見かけたのは、八月のはじめだった。蒸し暑い夕暮れの公園に佇み、青年はずっと空を見上げている。いったい何を見ているのだろうと、睦美も視線の方向に目を向けたが、そこにはただオレンジ色に染まった雲が薄くのびているばかりだった。
 誰かに似ている。そう睦美は思った。小学生の時の初恋の男の子か、中学生時代に憧れていたバスケットボール部の先輩か。長身で端正な顔立ちをしているのは、遠目からでもわかった。
 黄昏れ時の公園には、青年の他には誰も人影がない。公園の周囲を取り囲むように造られている花壇には大輪の向日葵の花が風に揺れていた。
 よく公園で遊んでいる近所の子どもたちも、その日に限っては来ていなかったようだ。幾分涼しさをはらんだ山からの風に乗って、隣町の方から祭りばやしの太鼓や音楽が聞こえてくる。毎年恒例の夏祭りがはじまっていた。暗くなったら花火が見られるだろう。音のする方向を振り返りながら、きっと子どもたちも祭りに行っているのだと睦美は思った。
 ふと視線を戻すと、青年の姿はもうどこにも見えない。気になって公園の周囲を見回したが見つからなかった。おそらく、向かい側の出入り口を通って木立を抜けていったのだろう。さして大きくはない公園だから、睦美がよそ見をしている間に青年は立ち去ったのだとその時は考えた。
 ところが、翌日の夕方に公園の前を通りかかると、また青年が同じように空を見上げながら佇んでいる。その日は、すべり台で遊んでいる子どもたちもいた。遠目ではあったが、青年の見た目は浮浪者でも不審者という雰囲気でもない。ただ、凶悪な事件が多い昨今の事だから睦美は妙に気になった。

 ケアマネージャーという仕事柄、お年寄りと接する機会が多い。昔の話を聞くたびに、世相がすっかり変わってしまったのだと痛感する。睦美が暮らすこの街も、以前なら子どもたちの様子を見守るお年寄りがたくさんいた。駄菓子をくれるお婆さんや、悪戯好きの子どもを厳しく叱りとばすお爺さん。だが今は、そんなささやかな善意を煙たがる人も多い。他人の事には無関心であるのが当たり前になってしまっている。
 それではいけないのだと思った。気になったのだから、青年に声をかけてみよう。睦美は思い切って黄昏時の公園に足を踏み入れた。
「あの、失礼ですが何を見てるんですか?」
 少し間の抜けた質問だとは思ったが、他に訊ねようもない。何をしているのかというのも、様子を見ればわかる。近くで見ると、青年は優しい顔立ちだった。あまり見たことのないデザインのシャツとズボンを身に着けている。肌が透き通るように白い。だからこそなお更、空の一点を食い入るように見上げる青年の表情は異様にも感じられた。
 睦美に声をかけられ、青年は驚いたように目を見開いた。空に向いていた顔が、ゆっくりと睦美に向けられていく。やがて目と目が合った時、瞳の奥には不思議な光が宿っていた。
「あなたは、どなたですか?」
 睦美の質問には答えず、逆に青年が訊ねてきた。想像していた以上に若い声だった。
「あっ、すみません。近所に住んでいる者です。昨日もここでお見かけしたので…」
 名前を名乗ろうかどうしようか迷ったが、やはり得体のしれない人物に名前を知られるのは怖かった。一瞬、最近独身女性がアパートで殺されたニュースが頭をよぎる。テレビに映された犯人もいたって普通の男だった。
「何かを見ていたわけじゃありません」
 そう言いながら青年は、睦美の全身を観察するように見た。無表情なのがやはり気になる。
「お近くにお住まいなの?」
 睦美は少し気味が悪くなって、とにかく身元を確認しようと焦った。
「はい。あなたはどうやら変な人ではなさそうだ」
 青年はそう言うと、先程までとは全く別人のようなさわやかな笑顔を彼女に向けた。
 変だと思っていた人物から「変な人ではなさそうだ」と言われて、睦美はつい噴き出してしまう。まるでコントのようだった。
「どうして笑うんですか?」
 青年は不思議そうに見ている。悪い人ではなさそうだと思える。ふと気づくと、すべり台で遊んでいた子どもたちも全員驚いた顔つきで睦美を見ていた。一気に顔が赤くなる。いたたまれない気持ちになった。
「ちょっと気になって声をかけただけですから。失礼しました」
 睦美はそう言い残すと、慌てて公園を出ていこうとした。きびすを返して二、三歩進んだ時、青年の呼び止める声が聞こえる。振り向くと、青年はまた空を見上げていた。だが、どうやら意識は睦美に向けられている。
「また会えますか?」
 一瞬、青年が言った言葉なのか、記憶の中の声なのか分からなかった。確かに以前も、こんな場面を経験したと感じた。不思議な気分だった。答えようとしたが、胸の奥がざわめいて言葉が出てこない。
「ぼくは堀内といいます。堀内英雄」
 そう名乗りながらも、青年の視線は空に向けられている。
「池田です。池田睦美」
 思わず名前を叫んでいた。「いい名前ですね」と青年の声が返ってきた。それでも目は空を見上げたままだ。まるで暗闇の中に佇みながら、遠くにある一点の光を見つめているようにも見える。子どもたちは、まだ遊びの手を休めたまま彼女を不思議そうに見つめていた。
 黄昏時は短い。周囲はだいぶうす暗くなっていた。さよならを告げるわけでもなく、睦美は慌ただしく青年に頭を下げると、足早に事務所への道を急いだ。

◇◇ ◇◇◇ ◇◇

 翌日からしばらくは仕事の訪問先が隣り町に変わって、睦美はその公園の近くを通る機会がなかった。夕方近くになると青年の事が気になったが、無理してまで確かめに行きたいとは思わない。それでも訪問先で名乗る時、名前を褒めてくれた青年の声が胸の中で蘇ったりした。
 堀内という苗字にも全く覚えはないのだが、新しい利用者名簿を渡された時は、つい無意識に同じ苗字を探してしまう。心のどこかに、もう一度あの青年に会いたいという気持ちがあるのも否定はできなかった。

「それってさぁ、一目惚れって奴じゃないの?」
 事務所での書類仕事の合間に、ふと青年の話をした時、統括チーフの榊原が少しにやけた顔でそう言った。この事務所には、睦美を含めて三人のケアマネージャが所属し、二人の事務員がそれをサポートしていた。社長ではないが、榊原はこの事務所の実質的な代表といえる。彼女自身もケアマネージャーとして働きながら、全員を束ねていた。
「イケメンだったんでしょう? それなら天然ちゃんでも許せるわ」
 シングルマザーでありながら、二人の子どもを育ててきた榊原は、とにかく物言いがストレートで明るい。自分とは正反対の性格だと日頃から睦美は羨ましく感じている。それでも、あの青年に対する気持ちを誤解されるのは嫌だった。
「一目惚れのわけないじゃないですか。実際に会ってないからそんなこと言えるんですよ」
 そう言い返す睦美を、榊原も他の面々も面白がっているようだ。女ばかりの事務所だと、こういう時に逃げ場がない。リラックスした雰囲気にのまれてつい話してしまった事を睦美は後悔した。
「だけど、ほんとに何してたんだろうね、その若者は」
 まだ四十代の半ばなのに、榊原は二十代を若者と呼ぶ。青年が何歳なのかは不明だが、たぶん睦美より年下だと踏んだのだろう。
「まるで何かを待っているみたいでした」
 榊原の問いかけに、睦美はそう答えた。具体的に何かを見ていたのではなく、ただ空を見上げていた。その行為を後から思い返せば、何かを待っているというのが一番しっくりくる気がした。
「UFOとか?」
 冗談半分に榊原が言う。その青年が宇宙人なんじゃないのかと、しばし場が盛り上がった。すっかり笑い話のネタにされ、睦美は少しヘソを曲げた。
 ふいに、窓の外からサイレンの音が響いてきた。市役所からの放送だ。ゆっくりと語る女性の声が、七十四年目の終戦記念日だと告げる。時計を見ると、針は正午を指していた。事務員がテレビのスイッチを入れると、高校野球が行われている甲子園球場でも戦没者への黙祷を促す放送が流れていた。
 不思議なものだと睦美は思う。戦争を全く知らない世代だが、子どもの頃から、原爆の日と、この終戦記念日の黙祷だけはずっと続けてきた。これだけが、自分と過去の戦争を繋いでいるものかもしれない。そんな思いの中で、睦美は目を閉じた。
 急に訪れた厳かな時間は、気になっていたことをじっくり考える心の余裕をもたらしてくれた。もう青年と話してから十日以上が過ぎている。今日はあの公園の近くに住んでいる利用者を訪問するので、帰りに立ち寄ることが出来そうだった。このまま気にしているのも何だか釈然としない。今日こそ公園に行ってみよう。黙祷が終わり、事務所の面々が再び動き出すのを感じながら、睦美は思い切りよく席を立った。

 午後の訪問先は一軒だけだ。この家を訪問する時、睦美は時間に余裕を設けている。加藤という一人暮らしの老人で、五年前に妻に先立たれていた。生まれも育ちもこの街で、ずっと先祖代々の土地を守って暮らしている。娘が二人いたが、今は他県に嫁いでしまったので、一人暮らしになってしまったのだ。
 三人いる孫も全員関東にはいない。一人はアメリカ在住だという。身近な場所に血縁者がいないのは、高齢の老人にとっては非常に心細いものだ。出来るだけ話し相手にもなってあげたいというのが、睦美の気持ちだった。
 今日は訪問の後、そのまま直帰しても良い流れになっている。約束の時間にはまだ余裕があった。どうせなら夕方を待たずに公園に立ち寄ろう。睦美は途中でそう思い立ち、進む道を変えた。
 しばらくぶりで訪れたが、公園の様子はさして変わってはいない。夏休みだから、近所の子どもたちが遊んでいる。青年はいなかった。あの時はたまたまだったのかもしれない。それでも気になったので、遊んでいる子どもたちに訊いてみることにした。
「ねえ、この前ここで空を見上げていた男の人、覚えてる?」
「知らない」
 子どもたちの中には見覚えのある子もいたが、誰もが青年など見たことがないと言った。そのうち一人が睦美のことを思い出したらしい。
「この前、大きな声でひとり言を言ってたおばちゃん?」
 おばちゃんという言葉に引っかかったが、子どもからしてみればお姉ちゃんという年齢ではないのだろうと諦めた。それより、正直言っている意味がわからない。
「ひとり言って、何のとこ?」
「おばちゃん、そこに立って誰かと話してるみたいにひとり言を言ってた」
 途端に背筋がぞっとした。子どもたちには青年が見えていなかったのかもしれない。だが、そう思った途端、そんな馬鹿なと理性が叫ぶ。
「私がひとり言を言ってたの?」
 ちょっと聞き方がきつかったかもしれない。その子は途端に自信を失くしたように見えた。子ども心を傷つけたのではないかと思い、慌てて「そうだったかなぁ」と言いながら笑ってみる。ちょっと安心したのか、その子も笑った。
「おばちゃん、池田ですって大きな声で叫んでたよ。私も同じ苗字だから、よく覚えてるの」
 鳥肌がたった。確かにあの日、青年に向かって名前を叫んでいる。そんな場面は他には覚えがない。だとすると、やはり子どもたちには青年の姿が見えていなかったことになる。そんなことがあるだろうか。睦美は混乱していた。思わず、公園を見回してしまう。だが、やはり青年の姿はない。
「ありがとね。変な人に話しかけられたら付いて行っちゃ駄目よ」
 子どもたちからすれば、今の自分が一番変な人だろうと思いながらも、睦美はそう子どもたちに言い残して公園を去った。
 どういうことなのか見当もつかない。榊原が言っていたように、青年は宇宙人だったのだろうか。誰にも姿が見えないはずなのに声をかけられたから、一瞬あんなに驚いた表情をしたのか。堀内英雄と名乗った青年の声が心の中に蘇ってくる。不思議なのだけれど、青年の声を思い出すと、なぜか優しい気持ちになれた。
 とにかく、帰りにもう一度立ち寄ってみよう。十日も前の事だから、子どもたちの記憶も曖昧になっているのかもしれない。睦美はそう思いながら、今日の訪問先へと歩き始めた。公園の花壇の向日葵が、名残惜しそうに自分を見送っているように感じた。

 加藤老人の家は、五年間の一人暮らしでだいぶ傷んでいた。玄関で靴を脱ぎながら修理の計画を練らなければと睦美は思う。ケアマネージャーは、介護を必要とする高齢者が介護保険サービスを受けられるように、ケアプランの作成やサービス事業者との調整を行う仕事だ。介護保険に関するスペシャリストである。
 だが、実際は利用者のためになることは何でもする。部屋が汚れていれば一緒に掃除もするし、孤独に苦しんでいれば時間をかけて話し相手にもなった。利用者が活き活きと暮らせるように手助けする事。それが睦美たちの基本姿勢だ。他の事務所ではどうかわからない。それは睦美が先輩である榊原から教えられたケアマネージャーとしての心得だった。
 睦美が訪問した時、加藤老人は押し入れの奥から古いアルバムを引っ張り出して眺めていた。終戦記念日ということもあって、戦時中に亡くなった兄弟や友人たちを偲んでいたらしい。アルバムの中には、角が折れたりしているモノクロ写真がたくさん並んでいた。
 加藤老人は今年で九十歳になる。終戦の年には十四歳で、もう少し戦争が続いていたら予科練に志願しようと考えていたらしい。二人いた兄は学徒動員で戦死していた。
「あの頃は、お国のために死ぬのが当たり前だと教えられていたもんさ」
 国からの配給も滞り、いつもすきっ腹を抱えて過ごした少年時代を振り返りながら、加藤老人はそうつぶやいた。
「だけど、あの戦争に負けて自決した軍のトップや政治家は何人いたと思うかね」
 三百五十万人以上もの戦死者をだしながら、果たして何人が戦争責任や敗戦責任をとって自決したのか。陸海軍のトップたちよりも、下士官のほうが東京裁判やBC級裁判で何十倍も死刑になっているのだと加藤老人は言った。目には微かな怒りが燃えている。しかしその怒りが老人自身に向けられているものだとは、その時には気づかなかった。
「たったひとりだけ、身近にいた者が自決したんだ。思いもしなかった」
 突然、加藤老人の目に涙があふれる。八月十五日、天皇陛下の玉音放送で日本の降伏が国民に公表された日、自分たち庶民は長い戦争が終わってどこかほっとしていたのだと老人は続けた。
 暑い夏の陽射しに照らされた真っ白な道。空はどこまでも青く、街のそこここにはその空を見上げるように大輪の向日葵が揺れていたという。誰も外を歩いている者はいなかった。そんな奇妙なまでの静けさの中に、蝉の啼き声だけが響き渡っている。そして、一発の銃声が街に轟いた。
「兄の親友だった。海軍の軍人の御子息だったが、肺を病んでいて徴兵を免除されていたんだ。お国の役にたてないことを、ずっと苦しんでいた」
 そう言って、加藤老人はアルバムに貼られている一枚の写真を指差した。その写真には肩を組んで笑顔で写っている二人の青年が写っている。一人は加藤老人の兄だと聞いた。だが睦美の視線は、もう片方の青年の顔にくぎ付けになっている。そこには、十日前に公園で見かけた、あの堀内青年が写っていたからだ。
 思わず名前をつぶやきそうになって、睦美は懸命に堪えた。不用意に話して良い事ではない気がした。
「この方のお名前は?」
 声が震えているのが自分でもわかる。何か違和感を感じたのか、加藤老人も少し怪訝な顔をしたが、それでも睦美の質問に答えてくれた。
「堀内英雄さんというのが、彼の名前です。とても優秀な人だった」
 予想通りの名前が語られてもなお、睦美は混乱している。つまり、自分が公園で見かけた青年は幽霊だったという事なのだろうか。黄昏時とはいえ、まだ明るいうちに幽霊が姿を現すものなのかどうか睦美には見当もつかない。
「亡くなってから、堀内さんを見た人はいますか?」
 自分でも妙な質問だとは思いながら、睦美は加藤老人にそう問いかけていた。
「亡くなってから? ああ、それは幽霊という意味かな?」
 突飛な質問を、この世に未練はなかったのかという意味だと好意的に解釈してくれたらしい。それからしばらく加藤老人は、堀内青年との思い出話にふけった。
「年若い青年に未練がなかったはずはない。それでも死なずにはいられなかったのでしょうな。友は皆、戦場で亡くなっていたのだから」
 戦争に負け、世の中が大きく変わっていくことを、たぶん頭の良い堀内青年は知っていたのだろうと加藤老人は言った。その世界で自分一人がのおのおと生き延びていくことに、青年は堪えられなかったのかもしれない。そう言って老人は目を閉じた。きっと心の中に、かつて一緒に過ごした光景が蘇っているのだろう。
 老人の話を聞きながら、睦美は堀内青年を公園で見かけた話をしようか迷っていた。いまだに荒唐無稽な話だと思っているのも否めない。たまたま写真の人物とよく似た同姓同名の青年がいたとも思えないのだが、七十四年も前の終戦の日に自決した青年が、なぜ今、空を見上げて佇んでいるのかは、もっと分からなかった。
 何の確証もないまま九十歳という高齢の老人に曖昧な話をして良いものか、ましてやそれで何か健康を害することになるのではないかというのが怖かった。
 また今度伺った時に、詳しくお話を聞かせてくださいと言って睦美は席を立った。とにかくもう一度、堀内青年と会うことが先だと思ったからだ。先ほど立ち寄った時には会えなかったのだから、もう一度行っても会える保証はない。だが、なぜか夕方ならば会える気がした。以前に二回見かけた時と同じような時刻に、今から向かえば辿りつける。

 子どもの頃に祖母から聞いた逢魔が時のことを思い出していた。薄暗くなる夕方の、昼と夜の移り変わる黄昏時には、この世のものではない者たちと出会うことがある。だから逢魔が時。
 そもそも黄昏時は「誰彼時」とも書いたらしい。「そこにいる彼は誰だろう。良く分からない」という薄暗い夕暮れの事象をそのまま言葉にしたものだろうが、まさに今の睦美の心境をよく表していた。
 この前の別れ際、青年は「また会えますか?」と睦美に訊いた。あの時、以前にも同じような経験をしたと感じたのは事実だ。人と向き合うのが苦手な睦美は、ときめくような出会いを中途半端に投げ出してきたことが何度もある。自分から思いを伝えられないことで、始まるかもしれなかった関係を幾つも無駄にしてきた。
 堀内青年への思いが恋ではないのはわかっている。きっと過去に落としてきた儚い恋心を何となく青年に重ねているに過ぎないのだ。昨日までの自分なら、わざわざ会いに行こうとは思わなかっただろう。だが、加藤老人の話を聞いた今は、会いたいという確かな気持ちがあった。
 青年はあの公園に佇んで何かを待っている。その何かとは、きっと青年の未練だ。未練に気づかぬふりをして生きてきたしまった自分だけが青年の姿を見れたのだとしたら、それにはきっと何か意味があるに違いない。睦美はそう考えていた。

 加藤老人の家に長くいたため、公園に着いた時には、すでに陽はすっかり沈んでいた。昼間遊んでいた子どもたちも皆家に帰ったのか、遠目には人気がない。だが、近づいていくと、公園の中央にぼんやりとした影のような人の姿が見えた。思わず立ち止まって息を飲む。会いたくて来たはずなのに、いざとなったら膝が震えた。
「そこにいるの、堀内さんですか?」
 公園の外からその人影に声をかけた。はっきりしない輪郭が、かすかに揺れている。睦美は思い切って公園に足を踏み入れた。まるで水中に飛び込んで目を開けたように、曖昧だった輪郭が揺らめきながらもしっかりと見えた。まぎれもなく、先日見た堀内青年だった。近づくほどに、その姿は鮮明になっていく。
「また会えましたね」
 そう言うと、青年は空をあおいでいた顔を睦美に向けてにっこりと笑った。幽霊だと思っているのに、不思議と怖くはなかった。
「あなたは何かを待っているんですか?」
 単刀直入に、訊きたい事を訊ねた。相手がこの世の者でないなら、こうして会話できる時間がどれほどあるのかもわからない。回りくどく話す気にはなれなかったのだ。
「先日、あなたと会ってから考えていました」
 青年はまた睦美の質問には答えず、別のことを話しだした。
「あなたはきっと、生まれ変わったあの人なのだろうと」
 名前も顔立ちも違うけれど、自分の姿が見えるということは、何かの縁があるからなのだと青年は言う。
「あの人は私の妻になると思っていた。でも…」
 そこで言葉を飲み、青年は再び空を見上げた。睦美は急に胸の奥に痛みを感じる。まるで針で刺されているようなチクチクとした痛みだ。長い沈黙が周囲の空気を重くしている。でも何なのだろう。続きを促そうか考えつつも、睦美には声を出す勇気が湧かない。心のどこかで、すでにその答えを知っているような気がした。
 やはり黄昏時は短い。夜のとばりが急速に辺りを暗くしていく。再び青年の輪郭がぼやけはじめた。残された時間はもうほとんどない気がした。
「あなたはその人を待っていたの?」
 その人というのが自分だとは思えないまま、睦美はそう叫んだ。だが、もしもそうだとしたら、青年は再び姿を現さない気がする。
「あなたは勝手よ。自分だけの思い込みで出たり消えたりするなんて身勝手すぎる」
 面と向かって人を罵倒したのは初めてだったかもしれない。いつもは引っ込み思案の自分にこんな一面があることに睦美は改めて驚いていた。
 空を見上げながら消えかかっていた青年の姿が、一瞬、また鮮明に浮かび上がった。周囲はどっぷりと闇に包まれ、道端の街灯だけが薄っすらと地面を照らしている。
 青年の眼差しは、真っ直ぐに睦美へ向けられていた。
「あなたは死にゆく友を選んだ。その勇気と優しさをずっと心から慕っていました」
 そう言うと、今度こそ最後だというように青年は静かにうつむいた。初めて見せる姿だった。その表情には微笑みだけが残っている。思いを伝えられたことに満足したのか、やがて青年の姿はぼやけた影になり、そして今度こそ完全に消えた。
 気がつくと、街灯に照らされて幾つもの影が青年の立っていた辺りまで伸びている。公園の周囲の花壇に植えられた向日葵だった。夏の間、ずっと太陽を追いかけて空を仰いでいた向日葵の花たちは、しおれた花びらを地面に向けてうつむいている。その姿が消えていく前の青年と重なった。
 寂しげな光景ではあったが、種をたくさんつけた花は、次への希望を抱いているように見える。涙が頬を流れていた。哀しみからではない。何かひとつ区切りがついた気がする。睦美は、青年もそうであって欲しいと心から願っていた。

◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 その後、睦美は何度も加藤老人の家を訪れている。行く度に、戦争時代の話を聞いた。だが、彼女は自分が体験した不思議な出来事については一切語らなかった。
 老人の話を聞くごとに、かつてこの街で生きた堀内青年と周囲の人間模様がはっきりしていく。青年が生まれ変わる前の睦美だと語った女性は、学徒動員で南方に出征した加藤老人の兄に嫁いだ幼馴染の女性だった。つまり、加藤家の長男の嫁だったわけだ。長男の戦死した報せが届いてからも家を守り続けていたが、不幸にも買い出しに行った先で空襲にあってしまい、帰らぬ人になったという。
 睦美自身にはいまだに生まれ変わりの意識も記憶もない。青年と過ごした時間も、はっきりとした経験ではあったが、夢の中の出来事のようでもある。実際、青年がそう感じたというだけで生まれ変わりの根拠は今もないし、青年の幽霊さえも実在した確証はないのだ。
 ただ、ひとつだけ大きな変化があった。ずっとアメリカで暮らしていた加藤老人の孫が、来年日本で暮らすために一時帰国した。日本で事業を起こすためらしく、夏には加藤老人と一緒に暮らすという。睦美もケアマネージャーとして孫に会った。彼女より二歳年上だ。初対面にも関わらず、なぜか懐かしい感じがした。
 老人の孫の名前は敏隆という。学徒動員で戦死した兄の名前から一文字もらったらしい。確かに、写真で見せてもらった兄の面影が顔立ちに重なった。睦美にとっては前世の夫に似ている事になる。幽霊の堀内青年と出会ったことも、生まれ変わりの真偽にも半信半疑ではあったが、敏隆という孫に会った時に胸が高鳴った。
 以前の睦美なら、その思いも胸に閉じ込めたままだったからかもしれない。だが、この夏の不思議な体験で学んだことは、未練を残してはいけないということでもある。敏隆の思いも睦美と同じだったらしい。一ヶ月ほどの滞在期間の間に、敏隆と睦美の関係は急速に深まっていった。
 まだ結婚といった具体的な段階に進んでいる訳ではない。だが、来年の夏までには何かが決まっているという予感がした。日本とアメリカの遠距離恋愛でも揺るがない思いが、すでに二人の間に育っている。一目惚れで結婚したカップルでその後もうまくいっている二人は、前世からの縁があるのかもしれないと睦美は思った。
 来年の夏も二人でと、空港で別れた後、睦美は敏隆にメールを送った。春になったら、加藤老人が暮らす家の庭に向日葵の種を蒔こう。太陽に向かって空を仰ぐ花の下で、堀内青年との不思議な体験を話したかった。
 今でもあの公園の前を通りかかると、一瞬だけ人の気配を感じる時がある。早く生まれ変わってきなさい。睦美はいつもそうつぶやいた。決まって山からの風が吹く。そこにはもうないはずの向日葵たちが、揺れて触れ合いながら葉を鳴らしている音が聞こえるように感じた。
 残暑の終わりも近い。だが睦美の夏は、まだ始まったばかりだった。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

いただけたサポートは全て執筆に必要な活動に使わせていただきます。ぜひ、よろしくお願いいたします。