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夢は夢のままで終わる

私は、将来の夢を持てない子供だった。

なので、クラス替えを行うたびに書かされる
「自己紹介の紙」が苦痛で仕方がなかった。

なぜなら、必ずと言っていいほど「将来の夢は?」という欄があるからだ。

私は性格上、自分のことを話すことがもともと苦手である。

なのにどうして書かせるのか、
ありもしない夢を語る欄をなぜ作るのか、
疑問だらけだった。

それに加え、将来の自分は将来にしかわからない、
今から考えても考え尽くすことなどできない、
と感じていた。

・・・書きたくないがための言い訳のような理由は他にも思いつくが、
当時の私は将来大きくなりたいという夢を子供達に抱いてほしいという大人たちの押し付けのようなものをその「欄」から感じ取っていた。

そしてその「誰にも説明ができない」何とも言えない「言語化ならない気持ち悪さ」から書きたくないという衝動といつも格闘していた。

辛かった。

けれど、この欄を埋めずに先生に呼び出され、「どうして?書かないの?」と聞かれるのは厄介である。

それに「夢はありません」と答えて、夢を持つことの大切さを教育の一環として語られることはもっと厄介だ。

だからと言って、ここであまりに安易なこと(会社員になりたい)や
突飛なこと(世界中の人を助けるヒーロー)、
またはかなり具体的なこと(アパレルブランドを立ち上げて年収100億円を手に入れてハワイで生活する)を書いて、

先生や自分の親に期待させてしまっては申し訳ない。
自分がいたたまれない。

では問題。「Q 私は一体何を書けばいいのか。」

「A 当たり障りのないことを書く」
その通りである。

当たり障りがないというのとは、
将来の夢という正解のない問いに対して、「世の中的な正解」を掲げることによって誰の目にも止まらないようにしたいということである。

それはまるで「あなたの名前は?」と聞いてフルネームを答えるかのように、本当に正当な正解のこと。

しかし、そんなものは存在しないので、次に私は
「空気を読む」というアプローチをしてみることにした。

その結果、やっぱり当たり障りがないように「お花屋さん」「ケーキ屋さん」なんて書いていた。

それで穏便だった。

学校生活において平和に過ごせることこそが最大の正義である。

本音の部分では、

そんなの本気で叶うのか、
今から願っておくことに何の意味があるのか、
単に大人(教師)が子供の将来の夢を聞いて「いいね!頑張ってね!!」と声をかけてその場を微笑ましく過ごしたいだけなのだ、
子供の夢なんて所詮・・・

と子供ながらに思っていた。

私はなんて生意気な子供だったんだろうか。

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