古典100選(42)住吉物語

今日も、鎌倉時代初期の古典作品を紹介しよう。

1221年、承久の乱の頃に成立したとされている『住吉物語』である。(ただし、元祖『住吉物語』が『源氏物語』や『枕草子』の成立以前に存在していたが、原本はなくて改作されたと言われている。)

昨日の実話(隆信と定家の母親の死)と違って、フィクションではあるが、同じく母親が亡くなり、今度は乳母まで亡くなることになり、侍従と二人で悲しむ姫君の状況が描かれている場面を取り上げよう。

「住吉」というのは、今の大阪にある住吉区のエリアにあたり、住吉大社があることで有名である。

実母に死なれて、父親のもう一人の妻(=姫君の継母)のところで養育されることになるのだが、この継母が姫君にひどい仕打ちをする。

せっかく自分を見初めてくれた男君に出会っても、なかなか結婚にまで至らないほど、継母の仕打ちはひどかった。

耐えきれず、姫君は侍従とともに、亡き母の乳母だった尼さんのもとへと住吉に逃れる。そこで、不思議なことに夢のお告げで男君が住吉に来てくれることになり、めでたく結婚するというお話である。

では、5月末日に乳母が亡くなる場面の原文を読んでみよう。

かくしつつ明かし暮らすほどに、姫君の乳母(めのと)、例ならず心地おぼえければ、姫君のゆかしうおはしますに、立ち寄らせ給ふべきよし、侍従がもとへ言ひやりければ、忍びつつおはしたりければ、乳母、起き出で、泣く泣く聞こゆるやう、「定めなき世と申しながら、老いぬる者は頼み少なくなむ。常よりもこの度は君も御ゆかしくて。かかる心のつきぬれば、見奉らむこともこの度ばかりにやなどおぼゆるに、あはれは、母宮のおはしまさざりしをこそ悲しと思ひつるに、この老い姥(うば)さへなくなりなむ後のゆゆしさよ。ともかくも定まり給はむを見奉りて後こそと思ひしに、これを見置き奉らで死出の山を迷はむことの悲しさよ。はかなくなりなむ後は、侍従をこそは縁(ゆかり)とて御覧ぜさせ侍らむずらめ」など言ひて、御髪(みぐし)をかきなでてさめざめと泣きければ、姫君も侍従も袖を顔に押し当てて、「我もともに具し給へ」と声も忍ばず泣きあひければ、よその袂(たもと)までも所狭きほどぞおぼえける。

さて、侍従をば置きて帰らせ給ふべきよし聞こゆれば、帰り給ひにけり。 

かくしつつ、悩みまさりて、五月の晦(つごもり)ごろに、はかなくなりにけり。

姫君、侍従が思ひさこそあるらめと、乳母の嘆きの上に侍従が心苦しさ思ひやり給ふ。

侍従は母の悲しみの中に、姫君の御つれづれを嘆きつつ、さて、後々のわざもこまごまと営みけり。

果ての日、姫君の常に着給ひける袿(うちき)一襲(かさね)、侍従がもとへつかはすとて、 

唐衣(からころも)    死出の山路を    たづねつつ
我がはぐくみし    袖を訪(と)ひなむ 

と褄(つま)に書きつけてやり給ひければ、侍従これを見て顔に押し当てて、人目もつつまざりけり。

以上である。

最後の「果ての日」というのは、喪が明けた日を意味し、この場合は四十九日が明けた日となる。

自分も乳母とともに旅立ちたいが、そうもいかないので、着ていた袿の褄(=襟の下の縁の部分)に和歌を書いて侍従に託したら、侍従は涙を流した。

興味があれば、この続きを読んでみてください。『源氏物語』よりは読みやすいです。

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