歴史をたどるー小国の宿命(87)

第95代の持明院統の花園天皇は、後醍醐天皇に譲位したあと、上皇となった。

花園天皇について、和歌や書道に優れた人物であることはすでに触れたが、上皇として『誡太子の書』(かいたいしのしょ)を著したのは有名である。

今の天皇陛下(第126代)も、花園上皇の誡太子書の内容にかつて言及されたことがあり、その内容とは、皇族たるものは徳を積んで学問に励むべしというものであった。いわゆる帝王学に通ずる内容である。

その花園上皇から見れば、後醍醐天皇の倒幕計画や後の親政(つまり建武の新政)は、「皇室の恥」であった。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の介入によって、持明院統と大覚寺統が交互に譲位するやり方が気に入らなかったのである。

折しも、元寇のあと、御家人たちの中には幕府に対して不満を募らせる者が少なくなかった。戦果に応じた十分な報酬がもらえず、北条貞時が発出した永仁の徳政令もほとんど効果がなかったからである。

そうした御家人の不満も利用して、1324年、後醍醐天皇は、腹心の日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしもと)らと密かに倒幕計画を立てた。

ところが、この計画が、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)にバレたのである。

六波羅探題とは、あの後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたことをきっかけに、朝廷の監視役として設置された幕府の出張所であった。

バレた理由は、謀議に参加した一人が、倒幕運動におじけづいて密告したためである。

これが、「正中の変」といわれる事件となった。1324年は、正中(しょうちゅう)元年だったので、元号の名をとって、こう呼ばれたのである。

4ヶ月に及ぶ幕府の取り調べにより、腹心の日野資朝は、佐渡に島流しとなった。日野俊基と後醍醐天皇は、無罪とされたのである。



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