20世紀の歴史と文学(1938年)

1937年に始まった「日中戦争」で、蔣介石率いる中国国民党と日本の関東軍は、終戦の1945年までの8年間、全面対決することになった。

すでに触れたように、蔣介石は、日中戦争勃発の前は、同じ中国大陸にいる中国共産党と戦っていた。いわゆる国共内戦である。

それが、日中戦争勃発によって、「国共内戦」から「国共合作」(こっきょうがっさく)にシフトしたので、中国軍の規模は拡大した。

さて、この日中戦争であるが、どうしてこうなったのか、これまでの経緯を理解している人は、日本軍(=関東軍)が悪いとみているだろう。

ただ、1938年の年明けの時点では、中国国民政府と日本政府の間で、和平交渉の道がまだ残されていたのである。

ところが、日本政府内部で、交渉打ち切り論が強くなり、和平交渉継続派が昭和天皇に上奏して判断を仰ごうとしたら、先を越されてしまい、そのまま打ち切られてしまったのが実状であった。

そして、中国国民政府側も和平派は多かったのだが、蔣介石のほうも考えが変わって、交渉が継続されることはなかったのである。

では、日本政府内部で、何が起こっていたのだろうか。

日中戦争勃発時も、和平交渉の道が残されていたときも、当時の内閣総理大臣は、近衛文麿(このえ・ふみまろ)であった。

近衛文麿は、終戦後に、GHQからA級戦犯として逮捕命令が出されたとき、自殺を図って亡くなった。

そして、外務大臣には、二・二六事件の直後に総辞職した岡田啓介内閣の後を継いだ広田弘毅(ひろた・こうき)が就任していた。広田弘毅もA級戦犯として起訴され、死刑で亡くなった。

さらに、陸軍大臣は杉山元(すぎやま・はじめ)、海軍大臣は米内光政(よない・みつまさ)が務めており、どちらも現役の軍人だった。

杉山元は、日本の敗戦後、拳銃自殺することを決め、自決した。夫人も後を追って、服毒自殺した。

米内光政は、1940年1月から7月まで内閣総理大臣も務めたが、第一次近衛内閣の中では強硬派だった。

この米内の主張に押し切られる形で、第一次近衛内閣は、陸軍の戦線拡大を容認することになった。昭和天皇も、交渉打ち切りが決定となる5日前に、御前会議で政府の方針は聞かされていた。

しかし、なぜか米内光政は、A級戦犯として裁かれることはなく、肺炎で1948年に亡くなった。

1938年は、こうして日中戦争の長期化が決定的となり、第一次近衛内閣は4月1日に国家総動員法を公布、5月5日に施行という異例の速さで戦時体制を強化し、国民生活を政府の権限で統制できるようにしたのである。

また、中国大陸に常駐していた関東軍に対して、蔣介石率いる中国軍も徹底抗戦を展開したので、戦況は泥沼化していった。

このとき、日本軍は中国共産党とも戦っていたことになるのだが、この裏で、ソ連のスターリンが中国大陸の共産化を目論んでいたのである。



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