【続編】歴史をたどるー小国の宿命(66)

7代将軍の家継が亡くなった1716年、現代の私たちにも愛され続けている徳川吉宗が、8代将軍に就任した。

徳川家康が亡くなってからちょうど100年後のことであり、しかも、吉宗は家康のひ孫であった。

ところで、時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』は、1978年に始まったので、もう45年前になる。吉宗を演じた松平健も、もう69才である。

逆算すれば、松平健が初めて吉宗を演じたのが24才だったわけだが、実際に吉宗が将軍に就任したのは、32才であった。

吉宗は、紀州徳川家の出身であり、生まれたのは和歌山県である。

第2代和歌山藩主だった徳川光貞の四男として、1684年に生まれた。幼名は、新之助(しんのすけ)であり、幼い頃は手に負えない暴れん坊だったという。

このことから、ドラマのタイトルも『暴れん坊将軍』になっており、「新さん」と呼ばれるのも、幼名の新之助からきているわけである。

ドラマでは、勝手にお城を抜け出して、町人と触れ合ったり、悪者退治をしたりしているから、暴れん坊将軍のイメージが合っていたわけである。

吉宗は、8代将軍に就任する前は、22才から10年間、第5代の和歌山藩主を務めていた。

その経験があったからこそ、藩政同様に、幕政の改革も優れた成果を収めている。

実は、第2代和歌山藩主だった父親と、第3代藩主だった長兄の綱教(つなのり)、第4代藩主だった三兄の頼職(よりもと)を、吉宗は1705年に相次いで病気で亡くしていた。

次兄の次郎吉は、吉宗が幼いときに早世していた。

だから、和歌山藩主は、第2代から第5代まで、ほぼ1年で次々と交代になったのである。

とはいえ、今でいえば、大卒の社会人1年目で和歌山藩主に就任して、係長クラスに昇任する頃に、幕府のトップに就任したわけだから、立派な出世である。

吉宗は、将軍に就任して早々に、家宣と家継の時代に「正徳の治」を執り行っていた新井白石を罷免した。

新井白石が、『折たく柴の記』の執筆を始めたのは、吉宗の罷免により失脚してからである。

新井白石は有能だったが、自身の政策を推し進めるあまり、譜代大名を敵に回していたことから、周りからは反発の声が大きくなっていた。

吉宗は、白石の政策をほとんど否定し、自ら幕政の改革に乗り出した。享保の改革の始まりである。




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