【続編】歴史をたどるー小国の宿命(94)

戊辰戦争の一連の流れが、昨日までの3日間でだいたい理解できたことと思う。

土方歳三は、最後の最後まで五稜郭で新政府軍を迎え討ち、最期は鉄砲の弾が腹部に当たり、落馬して死んだとされている。

奇しくも、近藤勇と同じ享年34才で亡くなった。

土方歳三の死は、同じく函館にいた榎本武揚の耳にも入り、彼の死の6日後に、とうとう榎本軍も降伏した。

ただ、榎本武揚は、近藤勇のように斬首されることはなく、投獄され2年半の拘禁生活を送った。

なぜ、彼の命は助かったのだろうか。

実は、榎本武揚を追い詰めた新政府軍の総指揮者は、あの黒田清隆だったのである。そう、知る人ぞ知る第2代内閣総理大臣である(初代はご存じのとおり伊藤博文である)。

このとき、黒田清隆は29才で、榎本武揚は33才である。

黒田清隆は、薩摩藩出身であり、旧幕府軍と対立する形になったとはいえ、かなりの人格者であった。

1862年の生麦事件のときもその場に居合わせたが、当時22才の若さながらも、イギリス人にキレて抜刀しようとした藩士を諌めたと言われている。

年上だった榎本武揚も、黒田清隆に勧められて、降伏を受け入れたのである。

そして、降伏後に東京に護送されてからは、長州藩出身の桂小五郎(=明治時代は木戸孝允と名乗った)ら厳罰を主張する者たちを抑えて、のちに特赦で出所させた。

実は、榎本武揚は地理にも詳しく、彼の父親は伊能忠敬に師事していた(榎本武揚は、伊能忠敬の死後に生まれたので、直接指導を受けてはいない)。

海軍での業績も踏まえれば、優れた才能は活かしたほうがいいと黒田は考えたのである。事実、榎本は、釈放されてからは北海道開拓使に任命されたのである。

こうして、明治新政府は、薩摩藩や長州藩を中心に、戊辰戦争終了後はどんどん改革に着手していった。

「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という有名な謳い文句が庶民の間でも広まったのは、3年後の1871年(=明治4年)のことだった。

すでに、開国によって欧米の文化が一気に流入し、チョンマゲをやめ、西洋人のマネをして断髪する人が増えたのである。

そして、翌年(1872年)には、西洋の教育制度に倣って学制が発布され、現代の学校教育の土台ができ上がった。

日本の歴史上初めて、「小学校」と「中学校」の名称が使われたのである。

明日は、学制の内容について見ていくことにしよう。









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