【続編】歴史をたどるー小国の宿命(57)

家光が、参勤交代の次に着手したのは、鎖国の完成である。

本シリーズが江戸時代に入ったときにも触れたが、秀忠が将軍になってから、キリスト教禁止令が1612年に全国に発布された。

1616年には、ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎の2港に限定した。1624年には、スペイン船の来航を禁止した。

そして、家光は、1635年に改正した武家諸法度にも、次のような条文を新たに盛り込んだのである。

第17条に、「五百石以上ノ船、停止ノ事。」という条文があるが、これは船の積載量に制限をつけたのである。

当時の1石は、150キログラムに相当する重さであった。つまり、500石では7万5000キログラムになるわけで、1000キロが1トンという換算になることから、積載量75トン以上の船は造ってはいけないことになった。

なぜこういった制限を加える必要があったのだろうか。

全国の大名は、それぞれの領内(=藩)で造船技術を持っている人を雇えば、船を造ることは可能であった。

いくらヨーロッパ船の来航を限定したところで、各藩が国外に船を出して貿易を行えば、どれだけの儲けがあるかで財政状況は良くなっていく。

せっかく参勤交代を毎年のように義務づけて、各藩に旅費や家来の宿泊費・飲食代を負担させ、幕府に楯突くための戦費を削らせても、貿易で儲けさせてしまっては、幕府の足元が危なくなってしまう。

だからこそ、積み荷の量を制限して、簡単には儲けさせなかったのである。

1639年には、とうとうポルトガル船の来航を禁止し、完全に鎖国することになった。

1543年にポルトガル人の来航によって伝わった鉄砲の技術。

1549年にスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルによって伝来したキリスト教。

この2つの伝来によって、室町時代から戦国時代にかけて国内の戦況が大きく動き、さらに江戸時代初期にかけては、キリシタン大名の誕生やキリスト教勢力の拡大につながった。

わずか100年足らずで、貿易制限とキリスト教勢力の抑圧を行い、家光は盤石の支配体制を敷いていったのである。







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