現代版・徒然草【56】(第154段・盆栽と差別意識)

5月13日の第43回で、日野資朝が登場する第152段を紹介した。

今日は、再び日野資朝が登場する段を紹介したい。日野資朝については、第43回で軽く説明している。

では、原文を読んでみよう。昨日と同じく、場面ごとに6つに分けてみた。「この人」は、日野資朝である。

①この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、
②かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩(ね)ぢ歪み、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、
③とりどりに類(たぐい)なき曲物(くせもの)なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、
④やがてその興(きょう)尽きて、みにくゝ、いぶせく覚えければ、たゞ素直に珍しからぬ物には如かずと思ひて、
⑤帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
⑥さもありぬべき事なり。

以上である。

①②の文では、日野資朝が東寺(=京都にある)の門で雨宿りをしていたら、手足がねじ曲がっている身体障害者(=かたは者ども)が集まって居座っているのを見たということである。

③④の文では、しばらくその変わった容姿が珍しくて興味を覚えて見守っていたのだが(=現代では大問題になる)、そのうち興味も失せて、醜くてうっとうしく思い、珍しくないものがやっぱりいいやと思ったとのことである。(=これもとんでもない差別意識である)

それで、⑤の文にもあるとおり、帰宅したわけだが、盆栽を好きでやっていた自分が、その枝の曲折した珍しさを愛でていたことは、実は身体障害者を愛でていたことと同じだと気づき、一気に興ざめして鉢に植えてある盆栽をすべて掘り捨ててしまったのである。

最後の⑥の文では、兼好法師は、それは当然のことだろうと締めくくっている。

気分を害された方もいるかもしれないが、この時代は、まだ世界的に見ても、人々の人権意識は希薄なものであった。

1789年のフランス革命で、やっと人権宣言が出されたくらいである。

だが、日野資朝は、自分の本当の姿(=差別意識のある醜い自分)を、盆栽をきっかけに気づいたのである。

これはこれで、かしこい人間だと捉えることもできようか。(個人的な見解であるので、皆さんはそれぞれで考えていただきたい。)


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