20世紀の歴史と文学(1930年)
一昨日からの3連載となるが、文学の話が出てきていないではないかという声が聞こえてきそうなので、今日は、文学メインで解説をしよう。
1930年は、谷崎潤一郎と佐藤春夫との間の「細君譲渡事件」が世間では大きな話題になった。
細君というのは、奥さんのことであるが、自分の妻を人に譲るという倫理上きわめてあり得ないだろうことが実際に起こったのである。
谷崎潤一郎といえば、『刺青』『細雪』『痴人の愛』など耽美的な作風が目立つ。
谷崎潤一郎は1930年当時は44才、佐藤春夫は38才だった。
2人が初めて知り合ったのは1918年のことであるが、その3年後、佐藤は谷崎が奥さんに冷たい対応をするのを見て心を痛め、それがいつしか同情から恋心に変わったのである。
それで、谷崎から奥さん(=千代という)を譲ってやると言われたのだが、谷崎は、千代の妹に惹かれて、妹と結婚するつもりだったらしい。
ところが、千代の妹(=彼女が『痴人の愛』に登場するナオミのモデルだった)に断られたので、譲るのはやめたとなり、佐藤春夫は谷崎との関係を一時的に断交した。
1930年、断交から9年が経ち、ようやく谷崎から奥さんを貰い受けることになった。谷崎は、千代と正式に離婚したのである。
今ならば、谷崎に対してものすごい非難が起こりそうなものであるが、当時の人々の考え方は違っていた。
人妻の身でありながら、他の作家と恋仲になるなどけしからんという見方が多く、むしろ千代のほうに非難の目が向けられた。
女性の立場がまだまだ弱かった時代である。
さて、昨日の世界恐慌の解説で1929年の文学の話ができていなかったので、ついでに触れておこう。
1929年は、2人の作家の作品が世に出たということを覚えておいてほしい。
井伏鱒二の『山椒魚』と、小林多喜二の『蟹工船』である。
どちらの作品も大きな反響があったのだが、特に、井伏鱒二の『山椒魚』は、井伏の晩年に結末が井伏本人によって書き換えられたため、文学者の間で議論を呼んだ。
50年以上が経った1985年に、結末部の「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ」でくくられる蛙との和解の場面が丸ごと削除されたことは、井伏作品の愛読者にとっても衝撃であった。
このことから、作品は作家のものか読者のものかで論争が起こった。
井伏鱒二は、この8年後の1993年(=平成5年)に亡くなった。95才だった。
対照的に、小林多喜二は若くして亡くなった悲劇の人だった。
『蟹工船』は、労働者の厳しい現状を描いたプロレタリア文学の代表作であるが、小林多喜二が共産党員だった(=正式な入党は1931年)ことから、当時の警察に目を付けられてしまった。
警察に逮捕された小林多喜二は、『蟹工船』発表の4年後に、拷問死してしまう。29才の若さだった。
1925年に成立した普通選挙法は、より多くの国民の声が選挙によって反映されるようになった点で肯定的に評価できるのだが、同じ年に成立した治安維持法は、小林多喜二のような活動家を要注意人物として取り締まるための法律という悪いイメージが付いてしまった。
1930年代の日本では、ロシア革命から台頭してきたスターリンによる共産主義の波、そして、世界恐慌による不況の波という二重の波に揉まれて、権力濫用の不気味な空気がじわじわと蔓延し始めていたのである。
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