【続編】歴史をたどるー小国の宿命(64)

今週は、5代将軍の綱吉から7代将軍の家継までの時代を解説し、来週からいよいよ8代将軍の吉宗の時代に入るとしよう。

さて、歴史に詳しい方ならば、綱吉の治世に起きた大事件をご存じのはずである。

本シリーズで、この大事件をスルーするわけにはいかないし、今もなお、歌舞伎や時代劇ドラマで語り継がれている。

そう、『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士討ち入り事件である。

東京都港区高輪にある泉岳寺(せんがくじ)には、赤穂浪士の墓がある。京浜急行電鉄(=京急)や都営浅草線の泉岳寺駅から、北のほうへ徒歩10分ほどで行ける。

そもそも赤穂浪士討ち入り事件は、赤穂藩主だった浅野内匠頭(たくみのかみ)が、江戸城の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に脇差しで斬りつけたことが発端であった。

浅野内匠頭は、当時、江戸へ赴き、吉良上野介とともに、第113代の東山天皇の勅使2名をもてなす任務を命じられていた。

吉良上野介は、浅野内匠頭を指導する立場にあったのだが、ともに仕事をするにあたって、浅野内匠頭は吉良上野介の言動に不信感を抱いていた。

その鬱憤が日々蓄積して我慢の限界だったのだろうか、1701年の春、江戸城の廊下で吉良上野介の背後から斬りつけたのである。

吉良上野介は、幸い致命的な負傷はせず助かったのだが、このことによって、勅使の接待の場が台無しになり、当時58才だった綱吉は大激怒し、浅野内匠頭に即日、切腹を命じた。

ところが、吉良上野介にはほとんどお咎めなしだったことに加え、赤穂藩は綱吉の命によって取り潰しとなったことで、亡き主君の無念さを案じて、藩士から浪士へと追放された47人の家来たちが蜂起したのである。

浅野内匠頭による斬りつけ事件から約2年後の冬、赤穂浪士たちは大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に、今の両国国技館の近くにある墨田区本所の吉良邸に討ち入りをした。

吉良上野介の首を討ち取った赤穂浪士たちは、幕府の命により、切腹の処分を受け、主君と同じ泉岳寺に葬られた。

浅野内匠頭は33才、大石内蔵助は44才、吉良上野介は享年62才で亡くなった。

綱吉が、赤穂事件の6年後に64才で病没したのは、すでに触れたとおりである。

綱吉の政治があまり評価されていないのは、この事件の影響も多分にあったといえよう。





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