現代版・徒然草【79】(第41段・死の自覚)

この夏もまた、思いがけず水難事故で亡くなった人がいた。

自分の人生があっけなく終わるなんて、本人も夢にも思っていなかっただろう。

だが、死の自覚がある人とない人では、やはり人生への向き合い方が違うものだろう。

では、原文を読んでみよう。

①五月五日、賀茂の競馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊(こと)に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。 

②かかる折に、向ひなる楝(おうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。

③取りつきながら、いたう睡(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。

④これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危ふき枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後ろを見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。 

⑤かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。

⑥人、木石(ぼくせき)にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

以上である。

①の文では、5月5日に京都の上賀茂神社で競馬があり、その見物に兼好法師も行ったのだが、競馬場のそばに停まっていた牛車の前で身分の低い人たちが立っていたので競馬の様子が見えにくく、競馬場の柵まで下りていって見ようとしたのだが、たくさんの見物人がいて分け入る隙もなかったという。

そのとき、②③の文のとおり、向かいの楝(=栴檀)の木に登って、木の股に座り、幹にすがりながら居眠りしている坊さんがいたのだが、落ちそうになっては目を覚ますことを繰り返していた。

④では、その坊さんの様子を見て、人々が「世にも珍しいバカ者だ」とあざ笑うのだが、兼好法師は「こうして生死を考えず、競馬の見物をしている我らこそもっと愚かではないか。」とつぶやいた。それを兼好法師の前に立っていた人が聞いて、「まさにおっしゃるとおりだ。」と言って、自分が立っていた所を空けてくれたのである。

⑤の文のとおり、まさに坊さんが居眠りしていたタイミングだったこともあり、この兼好法師の言葉が聞いていた人の胸に響いたのだろう。

⑥の文でまとめているように、人間は木や石ではないのだから、ちょっとした一言や状況で、心が動かされるものなのである。


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