【続編】歴史をたどるー小国の宿命(97)

1870年代前半は、さまざまな政策が実行されていたが、実は、明治政府の一部の関係者が国内不在だったことをご存じだろうか。

1871年から1873年にかけて、岩倉具視らが海外視察団を結成して、ほぼ世界一周旅行と言ってもいいくらい、アメリカやヨーロッパ、アジア諸国を回ったのである。

いわゆる岩倉使節団である。

岩倉具視に同行したのは、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文たちである。総勢100名を超える使節団の中には、留学生も含まれていた。

その留学生の最年少だったのが、6才の津田梅子だった。

今の津田塾大学(=東京都小平市)の前身である女子英学塾を創設したことで有名である。

彼女は、アメリカに留学して立派に英語を身につけ、帰国後は、伊藤博文の推薦で華族の女学校の英語教師となった。

彼女は、アメリカでは英語だけでなく、自然科学や心理学なども学び、中でもピアノの腕前はかなり上達した。

何しろ官費留学生で10年間もアメリカで学べるという厚遇だったのだから、当然である。

彼女の父親は、彼女が3才のときに福沢諭吉とともにアメリカへ視察に行ったことがあるので、おそらく父親の土産話を聞いて、目を輝かせたことだろう。

このように、一人の人物が幼少期にどんな環境に身を置いていたかで、現代の私たちは、思いがけずに大きな財産を受け継ぐことになるのである。

また、岩倉具視らが海外視察をしたことも、のちの日本の政治に大きな影響を与えた。

だが、彼らが国内不在だったことがマイナスに働いた点にも留意する必要がある。

学制発布や徴兵令施行は、彼らが不在中に起こった出来事である。

しかも、1872年は、今の防衛省にあたる兵部省が、薩摩・長州の藩閥の要望で廃止され、陸軍省と海軍省がいずれも新設されたのである。

さらには、あの秀吉の朝鮮出兵以来の「征韓論」が起こり、岩倉具視らが不在中に留守番をしていた西郷隆盛や板垣退助は、武力により李氏朝鮮を開国させようと主張し始めた。

1873年に帰国してきた岩倉具視らは、この動きにびっくりして、今は国内の政治を優先すべきだと言って、西郷隆盛らと対立した。

これがきっかけとなり、西郷隆盛は、板垣退助らとともに下野した。同時に、官僚も600人ほどが一斉辞職したので、「明治六年の政変」と呼ばれた。

板垣退助は、ほどなくして政界復帰することになったが、西郷隆盛が政界に戻ることはなかった。

そして、西郷は、4年後に壮絶な最期を迎えるのである。続きは、明日である。




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