現代版・徒然草【76】(第243段・父との会話)

父が年老いて、自分もそれなりの年齢になってくると、子どもの頃の父との会話がよみがえってくるほど、昔のことが懐かしく思い出される。

徒然草は、全243段なのだが、この最終段だけは、初めて兼好法師が父との思い出を語る形であり、他の段とは違った書かれ方である。

これで終わりだ、最終段にしようという意味で、最後に自分の親の話を持ってきたのだろうか。

では、原文を読んでみよう。

①八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。
②父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。
③また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。
④父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。
⑤また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。
⑥また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。
⑦また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。
⑧「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

以上である。

①②、③④、⑤⑥と父とのやり取りが3回繰り返され、最後の⑦で父が答えに゙窮してしまう。

子どものナゼナゼ質問は、どこの家庭でも、最後は答えられなくなることはよくある話である。

兼好法師が8才だったとき、仏とはどういうものかと父に聞いたら、「仏は人がなったものだ(=成仏)」と答えた。

次に、2つ目の質問で、人はどうやって仏になるのか(=成仏するのか)と問うと、父は「仏の教えによってなるのだ」と答えた。

さらに、3つ目の質問は、その教えを授けた仏は、どうやって自ら教えを受けたのかと問うと、「その前の仏の教えによって仏になったのだ」と答えた。

そして、とうとう⑦の文のとおり、「では、(教えを受けた仏がいない)最初の仏は、どのような仏なのか」と聞いたら、答えに゙窮して「さあ、空から降ってきたのか、土の中から湧いてきたのだろう」と言って笑ったわけである。

最後の⑧の文では、兼好法師の父が後日いろいろな人に「息子に問い詰められて答えられなくなった」と愉快そうに話していたと締めくくられている。

好奇心を持っていろいろと聞いてくる子どもの話は、誰が聞いてもおもしろいし、元気が出る。

今の時代は、ネット検索で一発回答を得られるせいか、そんな子どもの姿があまり見られなくなったような気がする。

寂しいものだ。


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