20世紀の歴史と文学(1962年)
1962年は、全世界の人々が忘れることのできない年になったことだろう。
米ソの2大国が、キューバを巡って一触即発状態になったのだが、これは「キューバ危機」と呼ばれた。
一時は、在日米軍も戦争準備体制に入ったほど、ケネディとフルシチョフのギリギリの交渉が続いた。
この「キューバ危機」については、予備知識がないと正しく理解できないので、最低限のことをまず押さえておこう。
まず、キューバは、アメリカのフロリダ半島の目と鼻の先にあって、カリブ海に浮かぶ島国である。マイアミビーチに近い場所である。
世界史の知識がある人はご存じだと思うが、もともとスペインの植民地だった。
大航海時代にコロンブスがアメリカ大陸に到着したとき、キューバにも足を踏み入れていた。1492年のことだった。
その後、1511年にスペインがキューバを征服したことによって、長らくスペインの植民地だったのだが、1776年にアメリカがイギリスから独立し(=イギリスが正式に独立を認めたのは1783年)、その約100年後の1898年には、アメリカとスペインの戦争によりスペインが敗北し、キューバは事実上、アメリカの保護国になっていた。
1926年、日本の元号では昭和元年にあたるが、この年に、キューバ危機当時の首相だったカストロが誕生した。
日本では、「カストロ議長」として長らく人々の記憶に残っていた人物であり、8年前の2016年に90才で亡くなったときは、ちょっとした話題になった。
2022年には、モスクワにカストロ議長の像が建立され、キューバの大統領とロシアのプーチン大統領が、除幕式に立ち会った。
ということは、キューバは、ロシアと同じ社会主義国である。
もともとアメリカの保護国であり、アメリカの傀儡政権が第二次世界大戦中や1950年代に樹立されていたのだが、1959年にカストロがキューバ革命を起こし、傀儡政権を倒したのである。
カストロは、スペインからの移民出身である大富豪の家庭に生まれたが、キューバ革命を起こすまでに優秀ながらも苦難の道を歩み、武力による政権打倒を実現した。
だが、アメリカとは傀儡政権と同様に友好関係を維持しようとする姿勢は見せていたのだが、当時のアイゼンハワー大統領やCIA当局からは警戒されていた。もちろん、アイゼンハワーの後任のケネディにも、その情報は引き継がれていた。
カストロが首相に就任したあと、1961年に、アメリカはひそかにカストロ政権の打倒工作を試みたのだが、失敗に終わった。
ほかにもキューバからの禁輸措置を取るなどしたため、経済的にダメージを受けることになったが、そこをソ連が経済支援として物資提供を行なっていた。
その頃からカストロは、ソ連寄りになり、先のキューバ革命を、正式に社会主義革命として認めたのである。
1962年の春、ベルリン問題でアメリカとの駆け引きに神経を尖らせていたフルシチョフは、社会主義国として名乗りを挙げたキューバに、核ミサイルを配備することを思いついた。
そして、ひそかにキューバへの物資提供にまぎれて、キューバ国内におけるミサイル基地建設の準備を進めた。
この基地建設が、アメリカの空軍の偵察機によって発覚したのが、10月の半ばだった。
ケネディ大統領と側近、アメリカの軍部の間では、連日、ソ連への対応を巡って激しい意見のやり取りが行われ、しかもソ連に基地発見したことを勘付かれないように内密に協議が進められた。
軍部には強硬策を主張する者が多くいたが、ケネディはフルシチョフの真意を慎重に読み取り、お互いに書簡を何度か交わしながら、妥協点を探った。
最終的に、ケネディは海上封鎖という方法で大惨事に至るリスクを回避し、フルシチョフも、アメリカがキューバに侵攻しないことを確信した上で、ミサイル基地の撤去を受け入れた。
カストロはフルシチョフに期待していたが、結果的に距離を置かれるようになる。
このキューバ危機は、当時の息詰まる駆け引きがいろんなところで記録に残っているので、詳しく知りたい人は、ぜひ調べてみてほしい。
私の記事も長くなってしまったが、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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