古典100選(60)草津繁昌記

国学者の本居宣長の作品は、本シリーズですでに紹介しているが、本居が亡くなってからも、江戸時代は幕末にも国学者が何人かいた。

そのうちの一人である堀秀成(ほり・ひでなり)は、今の茨城県にあった古河藩の藩士であり、45才のときに、『草津繁昌記』を書いた。

1865年のことである。

では、原文を読んでみよう。

①貸本屋といふは、いづこにもあるものにて、めづらしからぬを、ここなるは五月の節のころより八月の中ごろまでは、いとも多く貸し出すといふは、げにつれづれなる湯浴みの暇(いとま)に、常に書(ふみ)ども手に取らぬわたりにも、見ばやと思ふ心はあるべし。
②女どち、若き、老いたる、五六人集ひたるには、「こは為永春水(ためながしゅんすい)の『春告鳥(はるつげどり)』に侍る。『玉川日記』もおもしろきものにて侍る。『梅暦(うめごよみ)』ははじめより見給へ」など差し付くるさまなり。
③また、その隣壺(となりつぼ)に村長(むらおさ)とか言ふらん、芝居といふものに出づる庄屋といふ者めきて、夏なほ寒き郷(さと)なれば、長き袷羽織(あわせばおり)ものして、おほきやかなる紋染めたる柿色の単物(ひとえもの)着たるがあり。
④貸本の男子(おのこ)、『真田三代記』『真書太閤記』など置けると見ゆ。
⑤またその隣壺には、医師(くすし)にやあらん、前髪剃らぬ人、鬢(びん)の毛厚かる人などあり。
⑥ここに『梧窓漫筆(ごそうまんひつ)』『燕石雑志(えんせきざっし)』など置けるを、その客人(まろうど)の、「こや、商人(あきびと)よ。この草津のこと記したる見聞誌、地理誌やうのものはあらざるにや」と言ふを、貸本屋の、「さればそのことに侍る。さるものあらんやとのたまふ客人の年ごとに多かるを、ただ薬師堂にて出だす『縁起』といふものと、絵草紙屋にて売り侍る『湯治記』といふ五丁ばかりのものの外には侍らず。いかで『江戸繁昌記』などのやうに、この郷のありさま、写し絵にものしたるごとく、やすらかに書けるものあらばよけんと願ふこと、年々に侍る」など言ひつつくゆらすを、一人の言へらく、「さるものいまだなくは、書き試みて与へむは、やすきことながら、源氏あたりの文法にならひて書かば、見る人気遠くなるべし。さりとて、むげに軍記やうの詞遣(ことばづか)ひならんも書くに力もなきことなり。いかで古(いにし)へにもつかず、今にも寄らぬかたに書き試みてむ」など言ふは、いづこの何といふ人にやありけむ。
⑦また、道具屋といふは、湯浴み人のここに来着きたりと聞きて、すなはちに来て、その壺にて使ふ器(うつわ)どもを貸すことなり。
⑧まづ火桶、湯わかし、茶の器どもは人ごと借ることなり。
⑨さて、机、硯、花瓶など、あるはここにあるほどに衣ども納め置く箪笥などいふもの、すべて言ひおほするもの、こはあらずといふものなきまでに調(ととの)へ置きて貸すこととす。

家にあれば    笥(け)に盛る飯を    草枕
旅にしあれば    椎の葉に盛る

と詠み給ひしは、やむごとなきあたりのことなるを、わが輩(ともがら)のうへは、家にあるにまさりて、飽かぬことなきまで足らひたる旅住居(たびずまい)なりけり。

以上である。

読んでお分かりのように、有名な草津温泉街の人々の様子をありのままに書き綴っている。

今で言えば図書館にあたる「貸本屋」で、為永春水の本などが並べられていて、お客さんから「草津のことを紹介した地理誌のような本はないのか」という声もかかっている。

当時の人が、源氏物語の文法や、軍記物語の言葉遣いに言及しているところがおもしろい。

また、温泉に浸かりに来た人のために、机や硯なども貸している道具屋さんがあったことも興味深い。

旅先から手紙を出す人のためであろう。

最低限のお金があれば、手ぶらで温泉旅行に行けていたという当時の暮らしぶりが伝わってくる。

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