【続編】歴史をたどるー小国の宿命(35)

小田原城は、難攻不落の名城といわれていた。1560年代に、上杉謙信や武田信玄が一度攻めてきたことはあるが、簡単には落ちず、二人の名将でさえ、諦めて帰ったという。

今の小田原城は、JR小田原駅から徒歩15分ほどの城址公園内に、かつての面影を見ることができる。

現地に行ってみると分かるが、すぐ近くには相模湾が目前に広がっている。昔は、城の周りが城下町も含めて、外堀や土塁で囲まれており、その総距離は9キロに及んだという。

秀吉は、相模湾から毛利水軍や長宗我部軍を送り込み、東からは徳川家康、北東からは織田信雄(=信長の次男)、西からは石田三成を送り込んだ。他の武士たちも含めて、秀吉軍は総勢21万人、後北条氏は多くても5万人ほどだった。

1590年の3月から、秀吉軍は、小田原城周辺のいくつかの城を落城させ、そこから3ヶ月間は、両者のにらみ合いが続いた。

小田原城には、北条氏政と氏直父子、氏政の弟の北条氏照がいた。氏政は、かつて謙信や信玄が諦めて帰ったときの状況を知っているので、そんなに簡単に落城するわけがないとたかをくくっていたようである。

しかし、問題は、ほぼ籠城同然の家来たちの士気であった。

秀吉のほうは、長期戦になっても味方のモチベーション維持が図れるように、千利休を招いて茶会を開くなど、何らかのイベントを開いていた。それは、相手に対して、心理的余裕があることを見せつける目的もあった。

また、6月になると、伊達政宗が東北地方から現地までやってきた。これは、後北条氏につくことを諦めて、秀吉に屈服したことを意味する。

この動きを知った後北条氏は、あわてて重臣たちが城の中で会議を重ねるのだが、なかなか結論が出なくてグダグダな状態が続いた。

このときの状況を指して、「小田原評定(ひょうじょう)」という言葉の意味が生まれた。

結局、北条氏政の息子の氏直のほうが先に降伏して、その後、氏政や氏照は切腹に追い込まれた。

こうして、小田原攻めは、城が落ちなくても、後北条氏の降伏によって終わりを迎えたのである。

秀吉は、事実上の天下統一を果たした。だが、まだ彼の野望は道半ばであり、今度は朝鮮半島に目を向けていた。

次週は、いよいよ朝鮮出兵、そして、秀吉の最期である。引き続きお楽しみいただければ幸いである。




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