【続編】歴史をたどるー小国の宿命(69)

公事方御定書は、長い年月をかけて編纂され、吉宗が将軍職を長男に譲る3年前(1742年)に、ほぼ完成したと言われている。

このとき吉宗は、58才になっていた。

1745年、吉宗は引き際を意識していたのか、長男の家重(いえしげ)に、次の9代将軍の座を譲った。

3年後の1748年には、吉宗とともに幕政改革を担った大岡忠相は、三河国の西大平(にしおおひら)藩の初代藩主に任命された。西大平藩は、現在では愛知県岡崎市大平町にあたる。

実は、吉宗は長男に将軍職を譲ったあとも、1751年に68才で亡くなるまでは、大御所として実質的に実権を握っていた。

というのは、第9代将軍の長男の家重が、脳性麻痺のために言語不明瞭だったことによる。

脳性麻痺は、重症から軽度まで幅広いので、脳性麻痺だから将軍職がまったく務まらないわけではない。

事実、家重は吉宗亡き後も、自身が亡くなる1年前までトータル15年間も在職していたのである。

大岡忠相が西大平藩の藩主になったのは、町奉行(1736年には寺社奉行に異動)から大名への栄転を意味し、おそらく、吉宗の働きかけがなければ実現し得なかったであろう。

吉宗が1751年に亡くなったのを機に、大岡忠相は、西大平藩の藩主の座を譲り、寺社奉行も依願退職したと言われている。

吉宗が亡くなったことを受けて、精神的なショックがあったのか、後を追うように翌年2月に亡くなった。75才だった。

こうして、約35年にわたった吉宗と忠相の時代が終わったのである。

吉宗の長男の家重は、1760年に、自分の長男の家治(いえはる)に将軍職を譲った。第10代将軍の家治は、吉宗が存命中に、帝王学などの英才教育を幼いときから直々に受けており、優秀であった。

家治が将軍職に就いたのは、23才のときだった。そして、1786年に50才で亡くなるまで、立派に将軍職を務め上げたのである。

一方で、家治の時代は、「明和の大火」と「天明の大飢饉」という大きな災難が二度も降りかかった。この影響で、幕府の財政は大打撃を受けた。

そして、この困難な時代に家治とともに立ち向かったのが、知る人ぞ知る、老中の田沼意次(たぬま・おきつぐ)であった。

明日は、田沼意次の改革にさらっと触れながら、第10代将軍・徳川家治までの時代を締めくくることにしよう。






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