古典100選(74)義経記

今日は、平氏征討で活躍したものの兄の源頼朝の命令で悲劇的結末を迎えることになった源義経の物語『義経記』(ぎけいき)の紹介である。

作者は不詳だが、鎌倉幕府滅亡後の室町時代初期に書かれた作品だとされている。

軍記物語なので、史実とは異なる部分もあるが、義経の壮絶な最期が描かれた場面である。

では、原文を読んでみよう。

①(北の方に)御衣引き披け参らせて、君の御傍に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館(みたち=義経のこと)も上様(=北の方)も、死出の山と申す道越えさせ給ひて、黄泉の遙かの界(さかい)におはしまし候ふなり。若君もやがて入らせ給へ」と仰せ候ひつると申しければ、害し奉るべき兼房(かねふさ)が首に抱き付き給ひて、「死出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方なく、前後思えずになりて、落涙に堰き敢へず、「あはれ前(さき)の世の罪業こそ無念なれ。若君様御館の御子と産まれさせ給ふも、かくあるべき契りかや。亀割山(かめわりやま)にて巣守(すもり)になせ」とのたまひし御言葉の末、実(まこと)に今まで耳にある様に思ゆるぞ」とて、またさめざめと泣きけるが、敵はしきりに近付く。
②かくては叶はじと思ひ、二刀(ふたかたな)刺し貫き、わつとばかりのたまひて、御息止まりければ、判官殿の衣の下に押し入れ奉る。
③さて生まれて七日にならせ給ふ姫君同じく刺し殺し奉り、北の方の衣の下に押し入れ奉り、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申して我が身を抱きて立ちたりけり。
④判官殿いまだ御息通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、「北の方は如何に」とのたまへば、「早(は)や御自害ありて御側(おんそば)に御入り候ふ」と申せば、御側を探らせ給ひて、「これは誰、若君にて渡らせ給ふか」と御手を差し渡させ給ひて、北の方に取り付き給ひぬ。
⑤兼房いとど哀れぞ勝りける。
⑥「早々(はやはや)宿所に火をかけよ」とばかり最期の御言葉にて、事切れ果てさせ給ひけり。

以上である。

上記の文章では、義経は「判官殿」「御館」として表記されている。「北の方」というのは、義経の奥さんであり、史実に照らせば、郷御前(さとごぜん)である。

兼房というのは、この物語では架空の名前となっているが、当時の郷御前の付き人(=義経の不在時に護衛する守り人のようなもの)である。

この物語では、北の方の自害を手助けして、①の文では、ちょうど自害した北の方の体に着物をかぶせたところから始まっている。

なお、この時点では義経はまだ息があった。

その後、義経の子どもである5才の男の子(=若君)と、生後わずか7日の女の子(=姫君)を、義経に代わって兼房は刺し殺したのである。

ただ、史実では、義経と郷御前の間に生まれた子どもは、当時4才の女の子だけだったと言われている。

そうこうしているうちに、奥州の藤原泰衡(=義経をかくまっていた藤原秀衡の次男)が、頼朝の命で義経を追ってきていたので、義経の最期の言葉どおり、兼房は泣く泣く宿所に火を付けたのである。

1189年6月、義経は30才、郷御前は22才でこの世を去った。

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