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la la la 94. 「力の時代の終焉、物質社会の終わり」ってどういうこと?(By 古の魔女)

こんにちは。
[la la la 93]でお伝えした、スピリチュアル的な感覚を、進歩的科学として捉えてみる、の続きであり、最後は「念」に繋がっている一連の流れの中の今日です、「力の時代の終焉、物質社会の終わり」ってどういうこと? 笑

このマガジンでもちょこちょこお伝えしているのですが、だからそれがそもそも「どういうこと!?」って知りたいのに!・・・っていうところが
そんなの大前提っしょ、と、省かれているが故に「わからない!」ってことがスピリ系の記事ではよくありますよね。笑
スピ記事にはもう2012年くらいから地球はアセンションして「物質社会の終わり、地球は4次元に移行しています」と書かれているけどそれってどういうこと!? どういう次元にあたしたち移行してるの!?笑

それに関して今日、わたしがわたしなりに「量子力学」や「科学(と言い切っては科学者に失礼)寄り」の観点から具体的に解釈してみようと思います。正しいか正しくないか、これは正直誰にもわからないし(だって宇宙の発生に人間は誰も立ち会っていないので)結局は、前に書いたように「それが本当かどうかなんて実はそんなに大切なことじゃない」に帰結するのですけど、それでも説明してみようかな? 笑

先日述べたように、すべてのものはエネルギーでできています。
そして宇宙もまた、解明しきれないようなエネルギーでできているのですが、そもそも宇宙が発生した”ビッグバン”とは、”無”の中に宇宙が生まれた瞬間でした。例えばCとO2がかけ合わさってCo2(二酸化炭素)ができる、みたいな理科の実験ありましたよね。それらは”何か”と”何か”を掛け合わせています。人間も生物学上の男と女が掛け合わさってできています。
世の中のすべての物質はそうです。でもそれらすべての起源に立ち返った時でも「宇宙じたい」は何もないところか発生した。どうやって?

それはMind(想念)である。宇宙は想念あきりで発生した。
つまり無から有を生む動力(動力?原因のがいいか?)は想念である。

これが量子力学の理屈であり、いわゆる「引き寄せ」の元になる考えです。

(えっとこの時点で難しいからわかんないけど、形なきものは肌感覚で信じているよ!って人は無理に読み進めなくていいですよ!笑)

そしてこの宇宙の起源に「想念」が影響したことを大前提としてこれから話は進んで行くので、そこを疑ってしまう人は、じゃあ他にどういったアクションで「無」から「有」が発生したのか考えてみてもらえたらと思います。わたしはこの「想念ありき論」を「あ・るね」と思っていて、それをベースに世界に起きている歴史や宇宙のことを考えています。
つまり想念から宇宙が発生し、そこから光や素粒子や原子のようなものが生まれ、融合と分裂を繰り返しながら世界はできていったという話です。

実は太古の日本では「想念」が「物質」を凌駕していた時代がかなり長く続いていました。想念、と言うよりも「形なきもの」「お陰様」の時代です。

邪馬台国のあたりはまさにそれのピークの時代だったと思います。
卑弥呼は巫女でありシャーマンですから。
わたしが最近テーマにしている「壬申の乱(672年)」もそうですが、このあたりの日本というのは、戦いと言うとかなり「お陰様」が活躍した時代でありました。同時に「物質」が力の象徴として政治利用され始めた時代でもあります。日本という国は6世紀(600年代)半ばに仏教が伝来してくる前は「八百万(やおろず)の神」というものを讃え、神は森羅万象のそこかしこに宿ると言う考えでありましたから、実は鳥居なんかもなかったんです。
けれど仏教はすでに形なきエネルギーに「仏像」という形を与えていた。
そして日本の人たちはそれを見てびっくりした。こんなやり方あるんだ!って。 じゃあ神様にも形を与えようってことで鳥居とか神社を作り始めたんです。だから神社の御由緒を見たらだいたい創立は645年以降だと思うんです。わたしが「la la la シュライン(神社仏閣マガジン)」の方で、本殿にこだわらなくていいと言っているのはそういう意味があります。
つまり神を感じていた巨石のそばに鳥居や本殿を建てたりしたわけなのですから、森羅万象に神を見るなら、本殿でなくとも、その時吹き抜けた風、や、木漏れ日、や、気になる石、とかでいいんです。そしてこれが太古でありながら今後大事になっていく「4次元感覚」でもあります。

この「ラララ世界」で繰り返しお伝えしている智慧って、一言でいうなら全部、この「4次元感覚」を培うためのものと言えると思います。

だから「奈良の大仏」なんかが建ったあたりってまさに「形なきもの」と「物質」の混沌の時代、移行の時代ですよね。目に見えない畏怖とか、パワーとかそういったものを、ああいう具体的なサイズで ”形” にしたわけです。そしてそれを政治利用した。そして天武天皇と持統天皇は古事記と日本書記を編纂し「天照大御神」というかっこたる1つの神を掲げそれを中心に国をまとめることにし、伊勢神宮が生まれます。そういったところから日本における「物質世界」は生まれていきました。

編纂された古事記や日本書記は勝者の歴史であり政治利用のためのテキストとなっているわけですが、わたしは天武天皇と持統天皇を批判するつもりはありません。小さなたとえで言うと雇われている側と経営者と、視点がいつだって違うのと同じで当時の日本から争いをなくすには一つの信仰でまとめるのがいいと、時の政治家ー天皇たちーが思われたとして、それはその時々の時代の中の正しい選択であったのだろうし女性であった持統天皇に至ってはそれこそ決死の、命がけの作業であったことでしょう。わかりやすいたとえで言うとメリルストリープ主演の「ペンタゴンペーパーズ」みたいなご苦労があったはず。持統天皇は大切にしていた息子を亡くしています。

かつて戦いとは「祈り」対「祈り」みたいなもので(あるいは呪いかな 笑)、映画とかでいうと陰陽師みたいなことなのだけど、そういったものが幅をきかせていました。呪って雨を降らせたり、祈って結界を張ったり、そういうやつです。まだ物質信仰が貧弱だったから、形なきものが力を持っていたんですね。その片鱗は「お陰様で」とか「お帰りなさい」という大和言葉にかいま見ることができます。(みなさま「お陰様で」と言う時、本当にお陰サマの存在をイメージして感謝していますか?笑)
「お陰様で」は言葉の通り「お陰」の力で事が運んだということ。
「お帰りなさい」は実は帰ってきた人に言っているのではなく、
帰ってきた人に憑いてきたものたちへの言葉です。筋が通りますよね。
帰ってきた人に「お帰り」って、どこへ? 今帰ってきたのに、って感じで変だものね。笑

ともかくこの645~700年代の間に、国をまとめるためにパワーを知らしめる必要があり、パワーを知らしめるために大きな仏像や神社を建てるという、
「形なきものの可視化」がありました。ただこの時はまだそれらは「形なきものの可視化」であったわけだから、仏像や神社を建設した人たちはそれらの存在を感じてもいたし知ってもいたわけなんです。だから連動していたしそれを可視化したわけなので。でも今は「形なきもの」と「形(権力=パワー)」は、まるで別のものみたいに分断されていて「形なきお陰様」たちは、まるで存在しないように片隅に追いやられる、
そんな時代が続いていました。けれど今再びその転換期を迎えています。

わたしには「引き寄せ」を理解しやすくするために自分で考えた言葉があって、それは「ヘアピンはなくなる」というものなんです。
女の子のヘアピンって箱で何十本も買うのにいつの間にかなくなって、また新しいのを買うことになる。ブラックホールに入ったのかと思うくらいに知らない間になくなる。実はこれって引き寄せの逆「忘れられた者たちが世界から消滅していく経緯」をすごく顕著に表しているなあって思っていて、
だからまた「想念」の話に戻るし、先日の人が住まない家の話にも戻るのですけど人が「気をつけ」「目をつけ」ているその想念の力ってすごいってことなのです。その想念が例えば1本のピンでも「なくしたくない」と思えばちゃんと同じ場所に戻したり、数を数えたり、意図的にゴミ箱に捨てたりして管理することにつながるし、そんな中でなくしたなら「誰か」「何か」の仕業を感じるわけですよね。つまりそこに介入する「念」にも気づくわけなのです。

でも人は日々の中でヘアピン1本にそんな想念(マインド)を使っていませんから、例えばふとした拍子に落ちたピンが、ふとした掃除の流れで何かに紛れ、ゴミと一緒にゴミ箱に入り、そして廃棄されていく・・・みたいなことでどんどん消滅していくのです。

何が言いたいかというと「物質社会の終わり、終焉」というのもまたヘアピンの消滅と同じだということがお伝えしたいのです。

「世界はじぶん一人の意識じゃ変わらない」ってみんな思っていると思うんですが、実は、それらの連鎖で世界は変わっていきます。

例えばここのところのボクシング、体操などヒエラルキー社会のパワハラなんかが取り上げられてトップが失脚していく。そういうのを見ていたら「なんかこういうのやだな」と思って、そのヒエラルキーから離脱する人って増えていく。ヒエラルキーやピラミッド社会ってぎっしり詰まっていないと機能しませんよね。笑。スカスカになったら、いる人たちが甘い蜜どころかすっごくしんどい。(組体操やったことあるよね?笑)
そうするとそのピラミッド自体が崩壊していきます。

つまり人が奈良の大仏の建設を見てすっごくびっくりして何かを感じたように、この「ヒエラルキー大仏の崩壊」もまた、人々に感覚のチェンジを呼び起こす節目だということです。そして人は注目したり心を注ぐ対象を物質から形なきものへまた戻していきます。
今までは”億ション”とか欲しかったけど、地震や自然災害もいつくるかわからないし、不動産周りの不正なんかもすごく聞くし、今は「安易に億ションなんか買うの怖いよね」ってみんな思っていると思うの。
そうすると”億ション”はヘアピン化していくのです。

ひとりひとりの想念の加速、これがバカにできないのは、毎年毎年膨れ上がっていく渋谷のハロウィンを見たら実感できると思います。
つまり以前はヘアピン状態だったもの。十数年前のモンサンミッシェルなんかもそう。忘れられ、荒れ果てていた場所、もの、存在。そこに誰かが関わり、そこに手をかけ始める、そこに少しづつ関わる人が増えていく。

この「ラララ世界」もそうです。わたしの頭の中にしかなかった「世界」がある時このマガジンで発生し、吹いたら消えそうな胎動のエネルギー状態だったけれど、スキを押してくれる人、一切の告知をしていないのに20人に増えたフォロワーさん、そして94回に及ぶlalala記事、ここまでくるとなんとか小さなラララ祠は、建てられたかな?というところ。笑。
(力のためでなく道しるべとしてね)
「存在している」とようやく言えるようになったかなと思うのですがつまり「形なきもの」を存在たらしめるのはその想念ありきということなのです。

そう、以上の理屈から今、社会(Sodial)を含める世界全体で「権力」「ピラミッド」「お金」「物質」「ヒエラルキー」という3次元的なものーーつまり実はあまり形なきものと繋がっていないものーーたちのヘアピン化が少しづつ進んでいるということ。
同時にスピリチュアル的なものとか「抜け感ファッション」とか「自然体」とか「多様性」は広がりをみせている。
性も男女2種類からLGBTQってまず5種類くらいは言葉ができたりして、
「感じること」「Feelings」には何かがある。
っていう時代になってきています。

それってなんの時代かっていうと「愛の時代」なんですが、その言いかたって「あ、出た! 愛!!  愛デマシタ〜!」って感じで軽く愛とかいうと逆にうさんくさいので、笑  「想念の黎明期(れいめいき)」としましょう。
ファッションとかも20年サイクル!? でまた巡ってきますよね。

今、千年というか二千年単位とかかもしれませんが、またマインド先行時代 "お陰様時代"が巡ってきています、また新しい形で。
だからわたしは「古(いにしえ)の魔女」の智慧をお伝えするマガジンをやっているのですが、こう考えて行くと、どうですか? わたしたちのマインドまたは精神性の成長の先に「古」があるんだとしたら。古代が今より「遅れていた」という考えって、本当に正しいんでしょうか?

わたしは古代日本には、信じられないほど高度な文明があったのではないか? そんな風に考えています。
でもその話はまた今度。

今日は意外とこれまでを総括するような内容となったのでところどころで過去の記事を貼っておきました。
えっと特にプロローグの1〜10は結構この手の話をしているかもしれません。つまりこのマガジンは根幹スタートだったわけなんです。笑。
よかったら合わせてご覧ください。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ