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モノづくりを仕事にし、食べていくにはどうすればいいでしょうか

今日のタイトルは、noteのクリエイターフェスの動画の中で視聴者から寄せられた質問です。

この動画を見ていて
「無駄」って、なんだろう?
と言うことを考えさせられました。

その、noteのクリエイターフェスの動画はこちら。

思いつきを形にする!テクノロジーとデザインの使い方


中で「無駄マシーン」が出てきます。
ぶつかると悪態をつくヤンキールンバとか、ZOOMの終わりの気まずい瞬間をなくす、黒電話をガチャっと切るやつとか、面白いのです。
いや、面白いわ、藤原麻里菜さん。

そして、noteの深津さんがAIを利用して、いろいろな綺麗な虫を記憶させてそれを組み合わせて、美しい存在しない虫の画像を延々と作るというのを紹介されていました。夢があるなぁと思いました。
私だったら、フワモコなものを集めて究極の地球上に存在しない「可愛いシリーズ」を作ってみたいなぁ。
また、3Dプリンタでいろいろな瓢箪の「型」を作って、それで瓢箪を育てて、メルヘンにあるような木から(瓢箪の)お皿とか食器が生えているみたいなのが作れるのではないか?
など、面白いアイデアが次々と出てきました。なんともワクワクする動画です。

中で、山中先生が学生たちに
「「とりあえず、役に立つという条件を外して考えてごらん。』と言う」
とおっしゃっていました。
研究は大義名分を求めらるけれど、発想の段階はそれを外した方が良い。自分がすごく面白いと感じられるものには意味があるかもしれない、その意味を後から考えよう。
無意識のセンサーが拾っているものを、【役に立つ】という論理的なフレームをあえて外すことによって自由にすると言うことを意識的にやっている…と言うのです。

これを聞いて、ちょっと反省しました。会社で稟議を切るときはまず「投資回収」をどうするか?を念頭に考えるクセがついてしまっています。
そういうところからはイノベーションは起きないよね、やっぱり。

で、タイトルにもあった当初の質問です。

モノづくりを仕事にし、食べていくにはどうすればいいでしょうか?

この質問に対して、お二人はあまり「営業」をかけないとおっしゃっていました。
ちょっと意外でした。
まず、個人制作をして、それを人に見せる。そうするとその作品が転がっていって、仕事に繋がる。(そんな面白いものが作れるなら、ウチの仕事手伝ってよ、と言う具合に)
仕事をとりに行くことにエネルギーを使うよりも、今はインターネットの時代なのでとりあえず、インターネットに流してより多くの人に見てもらう。するとそれがその先につながる

とのことでした。

なるほど、この転がって世界が広がってゆく感じは分かります。
私は写真が好きなのですが、カメラを始めてから、それまでの自分では思いもしなかったことをしたり、思いもしなかった場所に出かけたりしています。

星空を求めてゴビ砂漠まで出かけたり、人生初の山荘に泊まったりしました。

さらに、なんとなく勢いで動画編集をするように発展したり。


結果として、写真と動画が合わさって現在両方をやっているのですが、これが会社でリクルートPVを作る話が出た時に役に立ちました。


そして新しい人との出会いがあります。写真をやっていなかったら一生出会わなかったであろう人たち。やりたいことをやっていたら、だんだん世界が広がって、繋がっていきました。

ご縁というのはこういうことなのかな?とも思います。

今、こうしてこのnoteを読んでくださっているあなたとの出会いも、きっと何かのご縁でしょう。 ありがとうございます。
ご縁に、感謝です。

そして、もう一つ、「無駄」について。
10月8日の日経の「春秋」欄に「無駄」についての記述がありました。
津原泰水さんの小説「ブラバン」からの引用で、


「音楽なんか無駄なんじゃ。ほいじゃけえこそ、いつまでも輝いとる」

『ブラバン』津原泰水

という一説を挙げ、学生時代の何かに熱中した経験、若き日の無駄の価値について述べられています。

海外の若者に日本の漫画やアニメの人気が高い理由の一つに学園生活への憧れがあるのだとか。

部活、学園祭、合宿、修学旅行。

学生時代の思い出は、失敗も含めて強く残っています。「味」の記憶も…。奮発して食べにいったコースのフレンチより、給食で食べた揚げパンやソフトめん(ご存じですか?)の記憶の方が強かったりします。

この学園生活への憧れが海外での人気の一つになっていると聞いて、なんとなく得心がいった感じがしました。

先日、津原泰水さんは、闘病生活の末亡くなったそうです。
「ブラバン」の中にはビリージョエルの「オネスティ」とかサイモン&ガーファンクルの「早く家に帰りたい」などの曲が登場して、私などはとても懐かしい気持ちになります。
誰もが少し遠い目をして語る懐かしい「あの頃」…
そしてその時の熱量。

私の高校は学園祭の期間が一週間ありました。
最初の2日が「芸能祭」中1日が「体育祭」そして最後の2日が「創作展」と言って最後の「創作展」がいわゆるクラスや部活単位で模擬店などをやる行事です。そしてその創作展が終わったら、後夜祭。校庭のキャンプファイヤーのところに集合。男女それぞれが一対になるようなクジをもらいます。そして対になる相手を探せたらチョコレートが貰えることになっていました。あなたのクジはなんですか?と話したこともないクラスも違う異性に片端から声をかけていくわけです。昭和の学校はユルかったなぁ(遠い目)。連続一週間の学園祭に向けて、体育祭の仮装競争に使う「衣装」の製作や(大体応援団長を女装させるものが多かったため、裁縫班の女子がクオリティを追求して目の色を変えていました)、模擬店の飾り付け、(夜光塗料をふんだんに駆使した天文研の研究とプラネタリウム展示は例年クオリティが高かったです)「芸能祭」の練習、リハーサルを繰り返すバンドや、演劇など。照明、音響合わせなどで徹夜になることもしばしばありました。そのハイになって走り抜けた学園祭一週間の達成感と祭りの終わりの切ないような一抹の寂しさが混ざり合って、後夜祭では頑張った自分たちを再確認するような時間となっていました。
と、ここまで書いてきて、私の学生生活でも学園もののお話が一本書けるような気がしてきました。
若き日の無駄。だからこそいつまでも記憶の中に輝いているもの。

今あなたが何かに熱中しているのであれば、それは「無駄」ではない、と思います。その熱、輝きから派生したものが繋がって次のワクワクへ広がってゆく。
自分のやりたいことをやろう。自分の好きなことを見つけよう。そして、何かが出来上がったなら、それを人に見てもらおう。

それが、ネットの波に乗って、はじまりの小さな波紋がだんだん大きな波へなってゆくことをイメージしながら…。



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