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朝活素読会に参加したときの私の頭の中 2024.2.15(1)

※頭の中を吐き出しているので、まとまっておりません。

素読会にて

今回輪唱(?)した一節は、

詩に云わく、桃の夭夭ようようたる、
其の葉蓁蓁しんしんたり。
こことつぐ、
其の家人かじんよろしと。
其の家人かじんよろしくしてのち
もっ國人こくじんを教うべし。

詩に云わく、兄に宜しく弟に宜しと。
兄に宜しく弟に宜しくして后、
以て國人を教う可し。
詩に云わく、其の儀たがわず、四國しこくを正すと。
其の父子兄弟ふしけいていりて、のっとるに足りて后、民これに法るなり。
これを國を治むるには、其の家をととのうるに在りと謂う。

一月にも一度、
我流訳文に当時の散乱した頭の中を添えて投稿していました。
読み返すとどうにも思うところが跳ね回っています。
ちょっと自由が過ぎました。

また近々、
「『大学』を考え」たことで広がった思考をまとめて
ちゃんと調理したものを記事にしたいです。

今回の話題(1)  「一」

至善に止まる

至善とは一(絶対)である。
本質的な、絶対不動の「善」に至るということ。
宇宙万物が調和する道のこと。

前回素読会の振り返りで拾った想像展開のきっかけ

この時、
ブッダが「サイのツノの如くひとり歩め」と
仏教の布教に躍起になる弟子を諌めていた
というエピソードを思い出しました。

ブッダは「世界に無関心」

ブッダの遺骨をおさめた仏塔が、古代インドが世界のかたちと考えた
卵形をしている事実とは裏腹なのですが、
ブッダ自身は、そのなかにわたしたちがいるという意味での
「世界」にまったく関心をもちませんでした。
なぜなら、ブッダにとっての「世界」は「周辺世界」といって、
自分の感覚器官によって把握できる範囲に限られていたからです。
つまり、ブッダにとっての「世界」は、
自分自身の心身及び直近の範囲内だけだったのです。
その証拠に、いわゆる原始仏典には、
「世界」をあらわす言葉はほとんど出てきません。

ブッダの場合は、個に徹して、社会との絆をいっさい
断たなければ、悟りは求められないという、
出家主義の立場を選んだために、「世界」の共有など、論外でした。
なにしろ、ブッダの遺言は
「犀の角のごとく、ひとり歩め!」だったのですから。
 [中略]
とは言いながら、やがて仏教も「世界」について、
考えざるを得なくなっていきます。
ブッダ自身は、そういう抽象的な課題に時間を費やすな、
そんな暇があったら瞑想修行にはげめ、と弟子たちを指導していました。
しかし、事態は、ブッダの思惑どおりにはいきませんでした。
なぜなら、インドの宗教界では、いかなる批判にも耐えられる教義を、
できるだけ速やかに確立して、
他の宗教とかわされる論争を勝ち抜かないかぎり、
生き残れなかったからです。早い話が、仏教といえども、
売られた喧嘩は買わざるを得なかったのです。
原始仏典を読むと、ブッダは繰り返し、
「論争するな!」と弟子たちに語っています[以下略]

正木晃『マンダラを生きる』

ここを読んでいた時、
ブッダが「論争するな」と言った光景を思い浮かべました。
どうして論争することを戒めるのか、
身近な記憶から想像すると
ひとは自分の身体とは離れたことを語り出した途端、
「自分を棚上げ」にしだすから
じゃないかと思いました。

「偉い人」を手放しで称賛している時や
その人から見て「社会性に反することをしている人」をこき下ろす時、
自分が日頃どういう振る舞いをしているかを忘れて
一時的な優越感に酔う恐れがあるからだと思います。

この優越感は元々錯覚で、心許ないため
他者と優劣を競って自分の優越感を証明しようとする。
ここから、「どっちが優れている」という
比較の次元に流れていって
二項対立が出来上がるのかな…
というのは、突拍子もないでしょうか。

世界(宇宙)大人の世界観

世界には自分一人しかいない。
見えている世界は、
自分のフィルターを通して、
周囲に自分の世界観を投影しているものだ。
周りはすべて、自分の世界観をうつす鏡にすぎない。

この感覚が腑に落ちて
世界を自分、つまり「一」だと思うことができれば、
自分の世界を構成していると言える
「周りの人」の幸せを
我がことのようによろこぶことができるし、
「周りの人」の抱える課題を
親身に受け止めることもできる。

「世界大人」がもつ世界認識は、
この「世界は自分だと思う」ということ
なんじゃないかと思いました。

宗教の始祖のストーリーが膨らむ

…これは妄想なんですが

キリストやブッダや孔子など、
何千年と時を超えて、受け継がれてきた教えを
さいしょに説いていた人たちのはじまりには
「自分との対話」があったんじゃないかと思います。

自己の真実と向き合った経験があると
1対1で他者と相対したとき、
なにか相手の心に迫るようなことを伝えられる。
それは、自分の心の動きをよく見つめたことによって、
相手の中に自分を見る用意ができているから。

こうして1対1が増えていき、
人が増えてくると
「巻き込む人」と「巻き込まれる人」
「主導権を握る人」と「それに従う人」
という流れから、権威が生まれてくる。

こうなってくると、人が増えた分
当初のシンプルな「ほんとうの主旨」とは違う、
影響を受けた人の都合が濃く反映された解釈が
生まれ出したりもする。
そこには解釈をした者の利己心が垣間見えたり
するものだから、
疑いや、それに張り合う新解釈や、
「どちらが権威を持つか」という争いも生じてくる。

この辺りは
「自分で真理を掴むことなく、
 他者から受けた教えを伝播していった人」自身の
「煩悩の雲」が影響しているのかなと思います。

→話題(2) 日本の神様の印象


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