見出し画像

心照古教〜『大学』を考える〜【二七】

其の家人に宜しくしてのち、以て國人を教うべし。

本文

詩に云わく、桃の夭夭ようようたる、
其の葉蓁蓁しんしんたり。
こことつぐ、
其の家人かじんよろしと。
其の家人かじんよろしくしてのち
もっ國人こくじんを教うべし。

詩に云わく、兄に宜しく弟に宜しと。
兄に宜しく弟に宜しくして后、
以て國人を教う可し。
詩に云わく、其の儀たがわず、四國しこくを正すと。
其の父子兄弟ふしけいていりて、のっとるに足りて后、民これに法るなり。
これを國を治むるには、其の家をととのうるに在りと謂う。

「大学」

我流訳文

詩経の周南桃夭篇に、
「みずみずしく葉が生い茂り美しく咲いている桃の花のように教養が豊かに成長した娘が嫁いで行き、その家の人とよく調和する」
とある。
このように婚家の人々と和やかに調和してはじめて、
国民を教えることができる。

詩経の小雅蓼瀟りくしょう篇に
「兄たるによろしく、弟たるによろしい」
とあるように、人の上に立つ君子は、
まず兄弟との調和を実践した上でこそ、
国人を教え導いていく。

詩経の曹風鳲鳩しきゅう篇には、
「君子の行為が人の道に適って、自ら周辺四方の国を正す」
とある。

つまり、君主が家の中で良い父子兄弟として振る舞ううちに、
民がこれを手本にするようになるのである。

これを、「國を治むるには、其の家を齊うるに在り」
という。

思うところ

『大学』は、国を率いる政治家の心得を説いた書ですが、
私自身が素読を始めたのは、
せっかく教材が入手できる時代になったのだから
自分に教育を施してみたいと思い立ったのがきっかけでした。

人の上に立つつもりがなくても、
「自分の人生の主人」という意味では
万人が…つまり、私も「君主」と言っていいんじゃないか
と思ったからです。

戦後に君子教育がなされなくなったのは
君子が「兵士」になり得ないからで、
国の上層が、「素直に消費される兵士」ばかりを求めたために
廃れたのだと、何かの本で読んだのを思い出しました。

なんの本だったっけなあと検索したところ、
思いがけぬ収穫を得ました。(本の正体への関心は霧散しました)

自分の生きづらさになっていて、
これバグだよなあと感じている
「率先して相手の下手に出ようとする」傾向について
言及されている文章を見つけたんです。

発言者は、…内田樹先生です。
彼の解説を読むと腑に落ちて穏やかな気持ちになるので好きです。

自分にとって利益よりも損害の多い政策を支持するという、どう考えても不合理なふるまいをしている人が日本人の過半になっています。…
なぜ、このような不条理なことが起きるのか? 
それは、「自分にとって本当にたいせつなことは何なのか? 自分の心と体が本当に求めているものは何なのか?」を問うてはならないと日本人が子どもの頃からずっと教え込まれているからだと思います。「自分は何をしたいのか?」よりも「自分が何をすればほめてもらえるのか」の方を優先的に考えるように仕込まれている。自分の中から湧き上がる内発的な感情や思念を抑圧して、外部評価で高いスコアをつけられるように感じ、行動することが「正しい生き方だ」と教え込まれている。学校では先生がまず問題を出して、子どもたちが答えを書いて、それに対して先生が採点をして、その評点に基づいて資源の傾斜配分が行われます。それがすべての教育活動で行われている。ですから、子どもたちは「問いに答えてよい点をもらうことが唯一の自己実現の方法だ」と信じている。
武道ではそういう構えのことを「後手に回る」と言います。「後手に回る」と必ず敗ける。それは禁忌なんです。ですから、武道ではいかにして「後手に回らないか」を教える。
相手が問題を出して、自分がそれに答えて、採点されるのを待つというのは、典型的に権力的な関係です。ですから、相手に対していきなり優位に立とうと思う人間は、必ず相手に質問します。どんな質問でも構わない。相手が正解を知らないような問いであれば、何でもいい。「あなた、...を知ってますか?」と切り出して、いきなり「試験官と受験生」の関係に持ち込む。これにうっかり応じた瞬間に、そこには権力的に非対称な関係が出来上がる。だって、何を答えようと、相手が採点者で、自分はその採点を待つだけという非対称的な関係がもう出来上がっているから。どうして「私が出題し、お前が答える。その答を私が採点する」というような圧倒的に不平等な関係を無抵抗に受け入れてしまうのか。そういう関係を子どもの頃から刷り込まれているからですね。「後手に回る」ことに習熟しているから、あっさり「先手を取られて」しまう

出題されて、答えて、採点されて、評点が高ければほめられ、低ければ罰される。それが社会的なフェアネスだと信じ切っている。「後手に回る」というのは「支配される」ということです。日本の学校教育は「支配される」マインドを子どもたちに刷り込んでいる。

山崎雅弘氏×内田樹氏が対談。なぜこの国はこんなに人を粗末に扱うのだろうか?

自分主体で学ばなきゃ、
生存不能なサイクルに呑み込まれるという切迫感は
ここから来るのかもしれません。
自分が学ぶ必要を実感している対象に身を投じるのは、
自然な情動ですよね。

→天下を平らかにするには、



知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。