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南青山にある「すぐ 春日 大佛」と刻まれた道しるべ


南青山の根津美術館のお庭に、趣のある石造の道標が立っています。

覗き込んで読んでみると、正面に掘られた文字は
「すぐ 春日 大佛」
であることがわかりました。

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右側に回ると、今度は

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「右 春日 大佛 二月堂」
と書かれています。

二月堂はお水取りで有名で、東大寺の中にあるお堂。

ああ、これは、かつて、奈良の春日大社や東大寺へ行く人のための道しるべだった。

下にはなにか日付のような文字が見えますが、写真が切れていてよくわかりません。おそらくこれは江戸時代の頃のものでしょう。当時の人の中にも「お水取り」を見たくてこの道を辿った人がいたのですね。

そういえば芭蕉の『野ざらし紀行』にお水取りのことを詠んだ句がありました。

 奈良に出る道のほど
春なれや名もなき山の薄霞

 二月堂に籠りて
水とりや氷の僧の沓の音


ところで、最初にこれを見た時には、これは春日大社と東大寺の大仏さまの"すぐ"近くのところに立っていたのかと思いました。

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でも、どうも違うようなのです。

裏に回ると、三方向の行先が書かれています。
そして、どうも「すぐ」は「直ぐ」で、近くではなくて真っ直ぐという意味のようです。

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くずし文字をなんとか読むと、こんな文字が書かれているようです。

 右 かうやよし野道
直ぐ 者セ越伊勢ミち
 左 奈ハり越ハセ道  *「ハセ」は「いセ」にも見えます

そして、さらに正面の左側にはこんな文字が

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こちらは、おそらくこんな文字

 右 者セ越伊勢ミち
直ぐ 奈ハり越ハセミち  *「ハセ」は「いセ」にも見えます
 左 春日大佛二月堂

「いせ」か「はせ」か。。
「奈ハり」の「ハ」と、「ハセ」の「ハ」は違う形をしているので、「ハセ」ではなく「いセ」のようです。

というのも、古文書では、同じ言葉でも漢字と仮名で変化をつけることがよくあるので、両方ともに「伊勢」なのでしょう。

そこで、奈良の地名をいろいろ想像して当てはめてみると、おそらくこんな感じ。

<正面>
すぐ 春日
   大佛
<右面>
 右 春日 大佛 二月堂
<後正面>
 右  かうやよしのみち(高野吉野道) 
直ぐ  はせこえいせみち(はせ越え伊勢道)
 左  なはりこえいせみち(名張越え伊勢道)
<左面>
 右  はせこえいせみち(はせ越え伊勢道)
直ぐ  なはりこえいせみち(名張越え伊勢道)
 左  春日大佛二月堂

また「高野吉野道」とあるように「道」というのは、「〜へ向かう道」という意味のようですので、
「はせ」を越えて伊勢へ向かう道 と
「名張」を越えて伊勢へ向かう道 の
分岐点だったようです。

これを整理すると

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こういった位置関係になりそうです。
そこで、地図を見ながら候補地をあれこれ考えて見たら、どうも桜井のあたりだと思うのですが、この「者セ(はせ)」がわからない。

というのも、長谷寺のある初瀬は桜井から名張へ向かう道の途中なので、「者セ(はせ)」を「初瀬(長谷)」としてしまうと、二つの伊勢道が同じ道のことになってしまいます。

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そこで、別に「はせ」という場所がないか、伊勢本街道(国道166号線)沿いを探して見たらありました。

「波瀬」

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飯高町波瀬  (三重県松坂市)

奈良県境に近く、山々に囲まれた波瀬地区は、宿場町として栄えました。
夏はハゼユリ、冬は高見山の樹氷など、大自然が織りなす四季の風景が楽しめます。
また、波瀬本陣跡や八角銅鐘など、歴史や文化を感じるスポットもたくさんあります。*

宿場町で本陣があるということは、大名が宿泊することのあるかなり重要な宿場だったはず。

調べて見たら紀州藩が和歌山と松坂を行き来していた和歌山街道の宿場町だったようです。

和歌山街道は、江戸時代に紀州藩の本城と東の領地松阪城を結ぶ街道として、伊勢参宮や熊野詣、吉野詣の巡礼道として、または南紀や伊勢志摩の海産物などを大和地方に運ぶ交易路として栄えた街道であった。またこの道は、全国交通系の一環として紀伊半島を東西に横断する重要なルートでもあった。


ということは、「はせ越え伊勢道」は「波瀬越え伊勢道」のことで、この道標のあった場所は、奈良県の桜井ということになりそう。

そして、それぞれの指し示す方向はこんな風。

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というわけで、この関係を国土地理院の地図に追記して確かめて見ました。

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名張も波瀬も、奈良県から三重県に入ってすぐのところ。古くから国境にある宿場だったのでしょう。

そしてこの道標が立っていたのはちょうど、三輪山と鳥見山と外鎌山の麓にあって道が出会う場所だったのではないかと思い至りました。

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春日と大仏さまを目指して、伊勢から歩いてきた人のための道しるべ。

そして正面には「春日・大佛」とあるので、波瀬を経由して伊勢本街道をやってきた人に向けて第一に知らされた道標。

「すぐ」は「真っ直ぐ」という意味だけれども、宇陀の険しい山道を歩いて来て、ようやく平地に出てきた人にとっては「もうすぐ」の意味でもあったと思います。

東から大和に入った人々が最初に目にしたのは穏やかに秀麗な三輪の山。
三輪山を見ながらこの道標の前でホッと安堵した様子が目に浮かびます。
だからきっと正面の文字だけ「すぐ」という仮名なのかもしれない。

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そして、先ほどの芭蕉の『野ざらし紀行』では、芭蕉は故郷の伊賀から大和を目指してきましたので、芭蕉は名張を通る初瀬街道を歩いて来たのでしょう。初瀬の道は比較的平坦な道だったようです。今でも「春なれや名もなき山の薄霞」の景色です。

ということは、こっちの面には「二月堂」が添えて書かれているのは、もしかしたら芭蕉にゆかりのあることかもしれません。

それとも、芭蕉もこの道標をみたのかもしれない。

そうでなくても、芭蕉の歩いた道を偲んで来た人には「二月堂」とみるだけで、「水とりや氷の僧の沓の音」が思い出されるはず。きっと感無量で立ち止まったことでしょう。

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野ざらし紀行によると芭蕉が二月堂に籠もったのは貞享二年(1685) 2月のことですので、この下の文字をなんとしても確認しなくては。。この道標についてのなにか年代の手がかりがあるかもしれません。


そして反対側は、大和や吉野から伊勢方面へ行く人に向けての道しるべ。

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伊勢に戻るのに、距離は短いけれどしんどい波瀬越えを行くか、時間はかかるけど平地が多い街道の名張越えを行くか、どんな風に決めたのでしょう。

行きと帰りと別の道にする人、同じ道にする人。

それともこの際、吉野で桜をみてから高野山を経由して熊野詣もしてしまおうか。とか

ここは悩み甲斐のある辻だったのでしょう。

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明治維新を経て、奈良の桜井から東京の青山へ。

どんな経由で、この道標が青山の根津美術館ににやって来たのかはわかりませんが、その流転を思いつつ直線距離で385km離れたこの場所で、江戸時代の大和へ旅することができました。

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東京都港区南青山 根津美術館 庭園にて




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