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ハードとソフトのウェア、そして物と霊。

前回のnote「ソフトウエアを着替えながら、ハードウエアを駆け抜けろ!」の FaceBook での翌日談です。


【デーブ川崎】コメント

英語のwearは、ご賢察の通り、役割やキャラクターと一体ですねー。着ぐるみと中の人の関係です。
狩猟社会が近代まで維持されてきたヨーロッパでは、食べ物と着る物が一体でした。つまり、動物や鳥を殺して、肉は食べ、皮や羽根は装いに用いたのでした。
つまり、相手の存在を丸ごと移し替えて日々を生きてきたわけで、装いには格別の想いがあるようです。
昔からヨーロッパのでは、オフィシャルな場や、夜の華やかなお出かけには、革は着ない決まりになっています(今はかなり崩れています。社会反抗の表現として随時革を着ると言うファッションもありますし)。夜は絹や毛織物、または麻の時間なのです。木綿をオフィシャルな場で着ないのは日本同様。着れば何かのメッセージとして受け取られる可能性があります。
なぜ革だけ別しているのか。ここにware解読の鍵の一つがあるかと思うのです。スーパーマンは、電話ボックスという街頭の情報端末基地で、宇宙の皮に着替えていたのかもしれませんヨ。

【森山智子】返信

川崎さん、ありがとうございます!すごく納得しました。
それでいて、コンピュータを単にデータを「処理する」と捉えているのと、データを「着替えさせて変身させる」と捉えているのでは、コンピュータの使い方として大きな開きがでてしまうのは、当然かもと思いました。それも、スーパーマンが誕生した時(1938年)からずっとなら、、、。
言葉には本来複数の意味が含まれていることを、考えなくなってしまった代償ですね。

【デーブ川崎】返信

1938年はラジオや映画、レコードがぐんぐん普及した頃ですねー。つまり、ハードウェアとソフトウェアを自由に取り替えられる『メディアツール』が台頭した時代。むしろ、これによって、言葉の意味にも幅があり、それを意識したほうがいいという感覚が広まったのだと思います。
ただ、その拡張は、単語の多義性を嫌う『戦争』のせいで、半世紀以上ストップしてしまいました。
今こそ、多義性を復活させるべきですね!

【森山智子】返信

多義性の復活、大賛成です!これがないと、この状況を突破できない気がします。

【森山智子】追伸

それから、ハードウエアは物で、ソフトウエアは霊(もの)なのかもしれないです。コンピュータはハードという器の中で、ソフトがデータにまとわりついて変身させる。という構図。
生糸や毛糸は、生き物から縁を「切られた」もの(無縁)ですが(麻も植物の繊維からできていて切られたものです)、でも、皮(革)は動物の「器」そのものですし、木綿は植物の「実(身)」であって霊がまとわりついたまま(他の属性がくっついているまま)なのです。
だから、革や木綿を着ているということは、「無縁でない」というメッセージになってしまい、公の場にふさわしくないのではないでしょうか。

【デーブ川崎】返信

まさに!心の底から、そう思います!もう、単一志向の世界に、気持ちが戻れません!

【デーブ川崎】もひとつ返信

森山さん!この『データを変身させる』という解釈、素晴らしい。
皮革や木綿のような『生きていたときの姿がそのまま感じられる素材を避ける』感覚、まさにその問題と捉えてもいいですね!



デープ川崎さん、ありがとうございました!

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