志摩旅は、伊能忠敬の『伊能図大全』を図書館でカラーコピーをしてつなぎ合わせ、近鉄の線路を青ペンで描き足すことから始まりました。
名古屋を出発する近鉄特急は、名古屋線、山田線、鳥羽線、志摩線を経由して、英虞湾に面した終点の「賢島」までつながっています。
伊能図では「カシコ山」。
地図をみると改めて、ここが陸つながりではなくて「島」だということがわかります。
Wikipediaによると、この島へは潮が引いたら歩いて渡れるほどの距離だそう。なので電車に乗っていても橋を渡ることに気がつかなかったのですね。
賢島(かしこじま)という名前も、徒歩(かち)で越えることのできるという意味の「かちごえ」が語源であるらしく、この地と海に暮らす人々にとっては、船で渡る「島」というよりも、歩いていくことができる「山」。
だから伊能図には「カシコ山」と書かれているのでしょう。
今回の旅の宿は、かつて「合歓の郷」とよばれたNEMU RESORT。でもこのホテルのある半島には名が記されていませんので、近代になるまで人がほとんど立ち入らない場所だったことを想像しました。
*
志摩は、江戸時代まで「志摩國」とよばれていました。
中央構造線の南、紀伊半島の東端の太平洋に面したところに位置しています。
地図でみると、四国から紀伊半島にかけての太平洋側は、すぐに山が迫っていて、平地がとても少ない地形。
このギザギザした海岸線を眺めているうちに、こんなことを思いました。
下の絵は、弥生時代の船の様子が描かれた壺(鳥取県出土)
オールで船をこぐ姿は、まるで鳥が羽ばたいているように見えます。
そんなことが思い巡りましたので、志摩への旅は、海から行くのが本来の姿だと思いました。
けれど今回は、新幹線で名古屋まで行って、名古屋から近鉄特急で行く旅程。ちなみに、海から志摩へ行く方法もちゃんとあって、鳥羽の対岸に位置する渥美半島(愛知県)の伊良子岬からはフェリーで鳥羽へ渡ることができます。別の機会にはこちらの旅も是非に。
*
そうして、志摩旅の一日は英虞湾をゆっくり楽しむことに決定。
英虞湾は古代には阿胡の浦と呼ばれていて、万葉集にも歌があります。「あご/あこ」は阿古、阿胡、安胡、阿児、英虞と、いろんな字があります。
今は合併して志摩市となっていますが、賢島の北にある鵜方(下図の伊能図では鵜方村)のあたりはかつて阿児町と呼ばれていました。
どうして此処を「あこ」と呼んだのだろう。
そんなことを思いながらこの海の様子を見ていると、南から西に伸びた半島が腕のように見えて、まるで海を抱っこしているよう。それは我が子を優しく抱きかかえている姿に似ていて、もしかしたら「あこ」というのは「吾子」のことなのかも。
*
英虞湾で船乗りしたい。
それを叶えようと調べていましたら、宿のNEMU RESORTには船着場があって、賢島からマリンタクシーのサービスがあることがわかりました。
けれどあいにく時間が合わなかったので、代わりに賢島から太平洋側に突き出た先志摩半島の和具をむすぶ定期船に乗って、半島の西端にある金比羅山の山頂の展望台へ行くことに。
金比羅山の山頂は英虞湾と太平洋と360°に見渡せる場所。
つまり志摩の金比羅山も、ここを目指す人々にとって海上からよく見える目印の山だったのでしょう。
帰りの定期船は夕刻の便にしましたので、黄金色に輝く英虞湾を船で行くことができました。
そして翌朝、NEMU RESORTの船着場へ行ってみました。そこは『紅の豚』のポルコの飛行艇がこっそり隠れていそうな小さな入江。
この小さな浦を見たとき「あっ」と息をのみました。
それは志摩の素顔を見たような気がしたから。
古代の海人族も、中世に熊野灘を縦横無尽に行き来した人々も、阿古の海に無数にあるこうした浦に、しばし船を休めたことでしょう。
シマに抱かれ、鳥となって、今度は船で、この浦へ。
*