淵、藤、富士・・3つの「ふち」がつながる筑波山の麓
陽成院は、かつて在原業平の恋人だった藤原高子が清和天皇の後宮に入内して産んだ皇子。当時からいろいろ言われている皇子ですが、この歌は「恋う心がまっすぐ」なので好きなんです。
そして、この『うた恋い。』を読んでから、この「恋が積もって淵となる」の意味(陽成院がイメージしている様子)をずっと考えていました。陽成院は京の都から出ていませんので、筑波山のイメージは当時の人々が語り継いでいたものを借りているはず。
そのことへ先日、JR常磐線に乗って少し近づけた気がします。
たくさんのアナロジーと仮説の組み合わせですので、ゆるーく、もしかしたらそうかもしれない。ぐらいで。
常磐線で利根川を渡って茨城県に入ってからは、駅名と地形がぴったりくるような場所が続いています。
【JR常磐線】
取手 藤代 龍ケ崎市 牛久 ひたち野うしく 荒川沖 土浦 神立 高浜 石岡 羽鳥 岩間 友部・・
常磐線の駅名
【取手】
千葉県の我孫子を出発したらほどなく利根川を越えますが、そのとき右手の鹿島の方面に遠く鹿島コンビナートの煙突群が見えます。そして川を渡ったら常陸国。
すぐに「とりで。とりで」のアナウンスが聞こえて来ますので、この高台に砦があったこととかが自然に想像できます。
【藤代】
ここで「藤代」という名前に出会いました。
そいういえば、鹿島神宮は藤原氏の氏神の春日大社と深い縁をもっていて、春日大社の神さまは、鹿島から鹿と一緒にはるばる来たことになっています。
また古代には「鹿島」は「香島」と書かれていますので、鹿島と香取で対にになっていたようです。そう思うとこの「藤代」という場所が香取海の奥の地点になりますので、なんとなく、香取海と藤原氏のことが気になりました。
【龍ヶ崎市】
ここから出ている関東鉄道の竜ヶ崎線の終点は、確かに古代には岬のようです。龍のような姿だったのでしょう。
【土浦】
霞ヶ関の左の浦が、土で埋まっていったので「土浦」でしょうか。
【神立】
筑波山の延長のようなこの台地は、鹿島神宮と香取神宮の二等辺三角形の頂点の位置で、確かに神が立つ場所としてふさわしいかも。
この飛び出したような台地の形は、縄文の頃から聖地であった青山墓地のある場所に似ています。
【高浜】
ここも古代には海が迫っていて、比較的高い場所の浜だったことが想像できます。
【石岡、岩間】
高浜を過ぎると筑波山の山並みがすぐ近くに見えて、海の気配が遠のきます。瓦屋根の家も多く、昔から人の生活があったことがわかります。
こんな風に、海辺の地名「浦、浜、沖」に対して、古くからの陸地だったところは「石、岩」という名がつけられているようです。
そういえば「ひたちのくに」は「常に陸」とか「常に磐(いわお)」と書きますので、古代にあってはこの筑波山の麓のあたりが中心だったのでしょう。
【羽鳥】
そんなことを考えていたら「はとり」という駅がありました。これはもしかしたら「服織(はとり)」のことで、このあたりに機織りの技術を持った人々がいたのかもしれません。
結城紬の結城も茨城県ですし、正倉院の宝物の中にも常陸国から調を納めた「常陸国調白絁」(白い絹織物)が残っています。
日本列島に技術を持ってやって来た人々は、鹿島神宮と香取神宮が門のようになっている香取海(現在の利根川流域と霞ヶ浦)を遡って、筑波山の麓に「いい場所」を見つけたのでしょう。
筑波山に囲まれた「富士山」という山
青春18きっぷの旅のあと、筑波山の近くを地図で見ていると標高136mほどの「富士山」という名があるのを見つけました。
筑波山と富士山の位置関係は、こんな感じで、まだ水が陸地深く入っていた頃は、この富士山は水の上に浮かぶようだったのでしょう。そして筑波山を源にして富士山の横を流れて高浜から霞ヶ浦に流れる川を「恋瀬川」といいますので、百人一首の陽成院のこの歌へと連想がつながってゆきます。
【淵】という場所
では「淵」(ふち)って、どんな場所を指すのでしょう。
辞書によると
ふち【淵】【×淵/×潭】
1 底が深く水がよどんでいる所。⇔瀬。
2 容易に抜け出られない苦しい境遇。苦境。
また、「淵」の漢字は、中国語のサイトによりますと
【淵】淵字说文解字原文:回水也。从水,象形。左右,岸也。中象水皃。
「回水」というのは、左右に岸があって水がそこでぐるぐるしていう場所のようです。
そして、「淵(ふち)」は「瀬(せ)」と対になっているようで、国土交通省の研究所のこんな図解を見つけました。
【瀬と淵の構造】
<河川用語集のページ>
ふち(淵)は、こんな形をしているんですね。
そして、これを天地を逆にしたら
ああ、右の形は富士山だ!
この石岡市にある富士山に登った人のブログがありました。
この人も書いているように、この富士山には山頂が二つあります。ちょうど、上の図解のように「ふち」が二つ並んだようなのです。
富士山の「ふじ」は「ふぢ」で「ふち」かもしれない。
また藤の「ふじ」は古語では「ふぢ」と書きますし、藤の花も「淵」のような形をしています。
漢字も文字もなかった古代にあって、縄文の人たちは、こういう「カタチ」を「フチ」と呼んだのでしょう。
藤原(ふぢはら)という名
そして、藤原の「原(はら)」という字は、九州や沖縄では「ばる」と呼ぶところもあって、例えば、春日原(かすがばる)、白木原(しらきばる)、西原(いりばる)など、陸地の張り出した場所のこと。
「はる」は「春日」の「春」ですし、そんな風に思うと、○のところが藤の花のようで、この地から奈良盆地へ行った人たちは、自分たちの故郷の地を、「「ふち」のようなカタチをした原=藤原(ふちはら)」と密かに呼んでいたのかもしれません。
もしくは、この筑波山に囲まれている「ふちやま(富士山)」がある平地を「ふちはら」と呼んだのかもしれません。
(ここまで書き及んで、奈良盆地の藤原京のことを思い出しました。大和三山に囲まれた場所にある「藤原京」という名。そういえば、耳成山も香具山も畝傍山も「ふち」の形をした山で、その高さもここの富士山と同じくらいです。)
そして常陸国は『風土記』の提出が速い
もうひとつ、常陸国と藤原氏との関係で、もしかしたらと思ったこと。
これは、会社勤めをしていたときの体感からの推論です。
『風土記』が残っている五つの国のトップは常陸国なのですね。
角川ソフィア文庫の「風土記総解説」に、面白いことが書いてありました。
それによると、風土記編集の命令は、元明天皇の和銅6年(713年)5月2日付で発せられていますが、その提出の時期はかなりの幅で速い、遅いがありました。
中でも常陸・播磨の風土記は、官命が出された和銅6年の近くに編述がされたとみられています。そして豊後・肥前などを含む九州の風土記は『日本書紀』成立の720年にやや遅れてからで(それでも約7年かかって)、さらに出雲の風土記は20年後の天平5年(733年)に編集年時を記しているそうです。
完成度でみると20年を費やした出雲風土記が一番充実しているようですが、常陸国と播磨国は官命を受けてすぐに、ほぼほぼの体裁を整えてチャッチャと提出したのですね。
常陸国と播磨国が速かったという状況とは。と想像してみました。
壬申の乱以降、都を飛鳥から藤原京、平城京へ移しながら、「日本」という国の名をかかげ、その枠組みづくりがなされてゆきました。特に、大宝律令、古事記、日本書紀、風土記など、この時代はたくさんの「文書」が編纂されましたが、これらのプロジェクトの実務を統括したのは、藤原(中臣)鎌足の次男・藤原不比等で、当時の役職は右大臣。
もしも不比等が常陸国と深い関わりがあった(自分の地元だった)としたら、自分が推進している政策なら、お手本としても、チャッチャと提出させるだろうなぁ。と思ったのです。
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そして、冒頭の陽成院は、風土記の成立から250年ぐらい後の、869年から949年の80年を生きた人。不比等の四人の息子たちによって4つに分かれた藤原氏の系統のうち、「北家」が勝ち残り出していた頃。
そんな中、9歳で即位して15歳で譲位させられてしまったので、その理由を立たせるために、いろいろ「よくなかった」と言われるけれど、本当は違うのかもしれません。
そんな時代、「常陸国の筑波山」は、都の人々にとって、どんなことを思い起こす山だったのでしょう。
都から離れているのに、なぜか懐かしく。生命力に溢れた力さえも感じるこの歌をもらった妃の気持ちは、きっとこの「うた恋い。」のようだったのではないかなぁ。
そんなことを想像しています。
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