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輿喜天満神社と素戔雄神社


近鉄「長谷寺」。
ここは長谷寺だけではありません。

この日は長谷寺詣にあわせて與喜(よき)天満神社も尋ねました。

素通りして長谷寺詣でをされがちな輿喜天満神社。
しかし!とても立派な神社だと思います。


これは3月の小雪が舞う日のことです。

色々なことが頭をまわり、まとまらずに本日になりました。

ぐずぐずまとまらないままですが、とにかくいったん投稿を決意。
このあたりの歴史に詳しいかたは何卒コメントください。

石段。


向こうに見えているのが長谷寺です。
「花の御寺」なのに人が多いのが苦手で、
花のない時期にばかり行っています。

長谷、「はせ」。
どうにもそうは読めません。
そもそもの周辺の地名は初瀬「はつせ」。
この辺りにあった「長谷」という水地を、間違いで「はつせ」と思い込んだのがこの難読の始まりではないかという説を私は支持。

石段。

この周辺で「鎌倉の長谷寺と関係あるのかなー」という発言を聞くと、首都圏のひとやな~と思います。首都圏の人にとっては、長谷寺といえば鎌倉長谷なのですね。そもそも本山は大和なのですが。

菅原道真公を祀る最古の神社。
門前町でも菅原公由来の石だとかがあります。


大和から神奈川県三浦半島初声(はつせ)海岸に流れ着いた観音様が、いまも鎌倉長谷寺の本堂の観音様だという話がありますね。まあ、観音様単体で流れるわけはないので、大和と鎌倉の間は、やはり海路が基本だったということでしょうか。


ちゃんと時期を考慮すれば、
きれいな梅とかが観れるようです。
石段の中ほど。
ここは、ほんとに石碑しかありません。
「寺跡」は見晴らし台になっています。
門前通が見えます。
まだ階段やに🦌
階段を上り切ったら掲示板。
みんなで撮ろう!ということですね。
住所「初瀬1」は長谷寺ではなく、ここ與喜天満?
そして元伊勢。
要約すると、
菅原道真死後に恨みで闇落ち 
→ 修行→ 神になる
・・・ということですか?


伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)速玉命(ハヤタマ = イザナギ)も祭神として鎮座。イザナギ2回

天理の伊射奈岐(イザナギ)神社も、主祭神がイザナギ道真公なんですよね。ちょっと考えるものがあります。


長谷寺と輿喜神社は、東大寺と春日大社くらいの感覚。
敷地は半ば一体化しているといいますか・・・

太玉と天児屋根が頑張ったら
引きこもっていた天照は職場復帰した。
という話。


囲われているのが天照
右上 太玉
左上 天児屋根
・・・天照、囲いから出てきてなくないですか?


天照ってそのビッグネームのわりに、天岩戸事件の時くらいしか主役級の話がない気がします。どなたか他のお話をご存じですか。

実は私は、ずっと伊勢の二見のあたりが天岩戸と信じて育ちました。大人になってから天岩戸伝説が日本全国にあると知り、大変に驚きました。

昔から天照信仰がありました
→長谷寺十一面観音 聖天さまが女天 
輿喜神社菅原道真公が男天
→夫婦岩

・・・?え?

長谷寺の公式見解は、十一面観音様ではなくて、脇侍の雨宝童子のほうが天照と同一視されてますが? というか神話の時代の天照と、平安時代の道真公を結びつける?・・・設定にちょっと無理がありませんか(汗)。


階段の下からここまで、誰にも出会いませんでした。
あの扉は、固く閉ざされている。
開かずの様子。
ああー・・・ 
天皇陵みたいなことにー。
拝ませたくないの?
そうなの?

私、とても気になるのが松浦武四郎もここ輿喜神社で神扱い。松浦武四郎公祭というのがあるんですよね。

松浦武四郎(まつうら たけしろう)というのは
三重県松阪の人で、もともとは肥前の一族。
「北海道」の名付け親にして、アイヌ研究者。

・・この松浦武四郎さんでよろしいんですよね?松浦さんご本人が天神信仰者だったようではありますが、出身地は少し違うんですけど。

さりげなく「※探検家の松浦武四郎・・・」と。
これが神格化の理由?
選者が例祭の対象となりうるのですか。


なにやら、ひとつの歴史の上から、別の歴史や思想や文化を幾重にも上乗せしてしまっているようで、非常にわかりにくいことになっています。
・・・わざと?


そして同じ敷地内に素戔雄神社。
つづく🦌





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