輿喜天満神社と素戔雄神社
近鉄「長谷寺」。
ここは長谷寺だけではありません。
この日は長谷寺詣にあわせて與喜(よき)天満神社も尋ねました。
これは3月の小雪が舞う日のことです。
色々なことが頭をまわり、まとまらずに本日になりました。
ぐずぐずまとまらないままですが、とにかくいったん投稿を決意。
このあたりの歴史に詳しいかたは何卒コメントください。
長谷、「はせ」。
どうにもそうは読めません。
そもそもの周辺の地名は初瀬「はつせ」。
この辺りにあった「長谷」という水地を、間違いで「はつせ」と思い込んだのがこの難読の始まりではないかという説を私は支持。
この周辺で「鎌倉の長谷寺と関係あるのかなー」という発言を聞くと、首都圏のひとやな~と思います。首都圏の人にとっては、長谷寺といえば鎌倉長谷なのですね。そもそも本山は大和なのですが。
大和から神奈川県三浦半島初声(はつせ)海岸に流れ着いた観音様が、いまも鎌倉長谷寺の本堂の観音様だという話がありますね。まあ、観音様単体で流れるわけはないので、大和と鎌倉の間は、やはり海路が基本だったということでしょうか。
伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)、速玉命(ハヤタマ = イザナギ)も祭神として鎮座。イザナギ2回。
天理の伊射奈岐(イザナギ)神社も、主祭神がイザナギと道真公なんですよね。ちょっと考えるものがあります。
天照ってそのビッグネームのわりに、天岩戸事件の時くらいしか主役級の話がない気がします。どなたか他のお話をご存じですか。
実は私は、ずっと伊勢の二見のあたりが天岩戸と信じて育ちました。大人になってから天岩戸伝説が日本全国にあると知り、大変に驚きました。
・・・?え?
長谷寺の公式見解は、十一面観音様ではなくて、脇侍の雨宝童子のほうが天照と同一視されてますが? というか神話の時代の天照と、平安時代の道真公を結びつける?・・・設定にちょっと無理がありませんか(汗)。
私、とても気になるのが松浦武四郎もここ輿喜神社で神扱い。松浦武四郎公祭というのがあるんですよね。
松浦武四郎(まつうら たけしろう)というのは
三重県松阪の人で、もともとは肥前の一族。
「北海道」の名付け親にして、アイヌ研究者。
・・この松浦武四郎さんでよろしいんですよね?松浦さんご本人が天神信仰者だったようではありますが、出身地は少し違うんですけど。
なにやら、ひとつの歴史の上から、別の歴史や思想や文化を幾重にも上乗せしてしまっているようで、非常にわかりにくいことになっています。
・・・わざと?
そして同じ敷地内に素戔雄神社。
つづく🦌
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