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映画『ソウル・ステーション/パンデミック』を観て~緊急事態とショックドクトリン~

◇ ゾンビ映画の三層構造 ◇

ゾンビの生みの親であるジョージ・A・ロメロ監督によって、ゾンビ映画がその時代の社会問題を提起するツールとされるようになったことは、多くの人が知るところだろう。

私が最初に観たゾンビ映画が何だったのか今となっては思い出せないが、比較的子供の頃の方が、単純に怖いもの見たさで好んでゾンビものを観ていたような気がする。

もちろん、そこにその時代の社会問題が投影されていて云々なんてことはてんで気にせず、ひたすら「キャーキャー」言いながら観ていただけだし、大人になってからだって、人種差別問題に切り込んでいるとかショッピングモールが消費文明の象徴なんだとか、何が何に対する何なのかなど解説が無ければ気づけないというていたらく。
「ホラー映画好き」を自称する以上、この点は克服せねばと軽くゾンビコンプレックスじみた感情を抱いたこともある。

だが予備知識なしで画面の前に座り「さてこの作品は、どんな社会問題を象徴しているのかな?」などと力んで観賞におよんだところで、たとえば古くは『ゾンゲリア』とか、あるいは2000年代に入ってからだと『28日後…』だとか、ストーリーもすこぶる面白く、かつ何とも言えない悲哀や暗さ、美しさに溢れる自分好みのゾンビ映画に出会ったりすると、結局ただ何も考えず「おっもしれー…」と口半開きで関心するばかり。ゾンビ映画の社会的意義だとか、そんな小難しいことはついつい忘れてしまう。

さておき、私なりに分析した結果、おおむねゾンビ映画というものはざっくり三層構造で仕上がっていると考える。

まず見所として、一番手前の層にゾンビへの「恐怖」がある。
初期の頃は、墓場から蘇った死体としてのイメージが強かったので、その動きは非常にゆっくりだった。しかし、時を経てゾンビにもバリエーションが生まれ、『バタリアン』を筆頭に猛ダッシュするゾンビなどもあらわれた。どんなゾンビが怖いかは人によって異なれど、そうやって作り手側は、より観客を震え上がらせるためにキャラをこねくり回してヒットを狙う。
つまりゾンビに限らず、それがサメであれ、ホッケーマスクの人間であれ、黒ロン毛白ワンピの女怨霊であれ、呪いの人形であれ、とにかくモンスターのインパクトこそがホラーの要と言っても良い。

次の二番目(真ん中)の層には、ゾンビと人間の「バトルアクション」が組み込まれている。
最初はひたすらパニックで逃げまどっていた人間たちも、次第にゾンビの生態を理解し始め、どう逃げるか、どうやっつけるかなど知恵を絞るようになる。そして、そこで編み出した方法を勇気を出して試す。失敗。追い詰められたところで、何かに救われギリセーフ。でも大切な仲間がゾンビ化する。それでも再挑戦。また一人ゾンビに。主人公は、かつて友人だったゾンビを殺すという苦渋の選択をし……と、恐怖と絶望と奮起をローテションで味わわせ、観客を終始ストレスフルな状態に置いたまま引っ張るのが、ゾンビ映画のやり口だ。

さらに深いところに三層目。ここがポイントで、一層目と二層目の後ろに隠れて、先に述べたゾンビパニックに象徴される「社会問題」が鎮座ましましているというわけだ。
いわゆる「裏テーマ」とか「象徴」と呼ばれるものだろう。

とりあえず「恐怖」と「バトルアクション」という手前二層だけでも娯楽としては楽しめる。たとえ意識が三層目に及ばなくても、映画を鑑賞した充実感はそれなりに得られるはずだ。
むろん、もとより三層目など設定されていない作品だって多くあるけれど。というか、低予算で作られたトンデモ作品なんかは、三層目どころか、一、二層すら雑に扱う例も少なくないが。
―― うっかり話が横に逸れてしまったが、つまり何が言いたいのかというと、この「社会問題」という三層目は、おおむね一と二の層の奥の奥の方に隠れながら観客の無意識に働きかける類のものであるということだ。
だから、観ている人間が普段からよほど社会への問題意識を強く持っていないかぎり、私のように何も考えず、フツーに恐怖とスリルを楽しんで終わってしまうケースも往々にしてあるだろう。
基本「象徴」とか「裏テーマ」っていうのは、隠れてナンボみたいなところもあるわけで、あえてわかりやすく描かない向きだってある。

◇ スクリーンから這い出てくるリアリティの恐怖 ◇

しかしここへきて、その一般的なゾンビ映画構造とはまったく逆に向かって爆走しきった凄まじい映画を観た。
そう、それこそが本作『ソウルステーション パンデミック』である。

ソウルステーション4

本作は、本来三層目の奥深くに隠されているはずの「社会問題」を、堂々と臆面もなく、誰にでもわかるようぶっちぎりで一番手前に持ってきている。
もはや隠そうとしていないとかのレベルでもなくて、むしろ「こっちがメインテーマだ。わかれ」と言わんばかりのごり押し具合である。
だから、通常であれば三層目のはずのそれのインパクトが強すぎ、一、二層目が全然かすんじゃって、観終わった後にはさほどそれらへの興奮が残らない。むしろ三層目の陰鬱さにやられ、とても暗い気持ちになる。

一応ハラハラはする場面もあるにはあるが、スリル&アクションに関しては、それこそこの作品の世界の「先」を描いた同監督の実写映画『新感染』なんかには到底及ばない。
『新感染』においては、ゾンビに立ち向かうマ・ドンソクのキレッキレのアクションにアドレナリンが出まくるし、居合わせた見知らぬ者同士が連携プレイでゾンビの裏をかこうと画策する姿にワクワクしたりもする。
しかし『ソウルステーション パンデミック』では、そういったホラー映画およびパニック映画ならではの醍醐味は、ほとんど味わえない。

新感染2

マ・ドンソク


じゃあ、この映画は怖くないのかと言えば、否、全然そうではない。見方によっては、『新感染』以上に怖い怖い映画である。
何と言ってもその三層目のそれが、全然既視感があり過ぎでまいる。「どんなに怖いって言っても、しょせん映画の中のお話でしょ」で割り切れる恐怖じゃないから困るのだ。

たとえば、リングシリーズで貞子がテレビから這い出てくる様は確かに怖い。が、たいそう怖いけれどもやはり私も大人なので、実際に家のテレビから貞子が出てくるんじゃないかと、夜中トイレにも行けなくなるほど本気で怯えるようなことはない。
だが『ソウルステーション パンデミック』における恐怖は、もうすでに画面から大きくはみ出し、間違いなく私の周辺を包囲してしまっている。

格差社会。
貧困。
パンデミック。
緊急事態。
ショックドクトリン。…etc

まさに今、日本が、そして私自身が置かれている状況に、この映画の世界がすっかりリンクしているではないか。
通常のホラーでは一層目のモンスターの恐怖が要であると言ったが、『ソウルステーション パンデミック』で描かれている、やけにリアルな荒廃した社会情勢そのものが、もう立派なモンスターであるといっていい。

この映画においては、ゾンビと社会問題の恐怖の比率が完全に逆転し、まず「国の政策の不備により完全に疲弊しきった韓国社会、めっちゃ酷くない?怖くない?」という問題提起がド頭からなされる。そうした社会問題という大きな土台があって、そこに、ある意味実験的にパンデミックを足しているという具合だ。要するに三層目から始まり、その後に一層、二層が続くという、通常のセオリーとはテレコの構造。

ゾンビに襲われる前から地獄。ゾンビに襲われても地獄。ゾンビから逃げ切れても地獄。

◇  ゾンビ=生前からの憎しみの発露? 

この映画は2016年の公開だ。
つまりコロナ前。

本作は韓国映画なので、この監督は韓国の社会情勢を憂えてこの時にこんな映画を作ったのだろう。しかし、今の時期に日本人の私がこの映画を観たら、もうまるで「コロナ禍の日本」を描いているようにしか思えなくても仕方あるまい。
とにかく、このアニメが描く街中の人々は、老いも若きも見渡す限り貧乏そうである。
でもってしょっぱなから「福祉は万人に補償されるべきだよな-」なんてセリフが、エキストラ級の脇役から発せられるのだ。あまりにわざとらしい不自然な放り込み方なんで、この脈略なく飛び込んできたセリフこそが、映画のメインテーマだと誰もが気づいちゃう。全っ然隠してない。ってゆうよりむしろ「はい皆さん、これから韓国資本主義社会のむごいなれの果てを描き、バンバン問題提起していきますからねー」と堂々宣言されたようなもんだ。

その直後、首から大量に血を流しながら一人の老人がふらふら歩いてくる。老人は駅構内に住まうホームレス。ホームレスの登場を上記のセリフの後に重ねてくる時点で、もう決定的といってもいい。

さらに重ね重ね、主人公のへスンの設定が悲惨すぎる。
彼女はもともと風俗店に勤めていたが、そこを逃げ出し彼氏のキウンと同棲中。しかしこの彼氏、風俗店から逃げ出してきた彼女にネットを通じて身体を売らせている。でもって自分は「給料が安いから」という理由でバイトもせず、ネカフェに入り浸り。
宿の賃料も払えず家主にキレられるへスン。
つまりは、過激な競争社会で脱落したと思われる若者の貧困層の現状をもっとも嫌なカタチで示しているというわけだ。

さて、件の流血していた老人ホームレスはどうなったか。
とりあえず、ホームレス仲間が助けようと支援施設に掛け合うが、支援施設内のいじめっ子ホームレスによって追い出されてしまう。ここにおいても、弱者が弱者を排除するという地獄絵図。
ついに老人はソウル駅にて死に果て、後にいち早くゾンビ化する流れに。そして駅に放たれたこの老人ゾンビを起点として、ソウルは一気に感染拡大。
ここからが、パンデミックの幕開け!!
……となるわけだが、ここまで散々リアルな地獄を見せられると、不思議にゾンビが出たってさほど怖く感じなくなる。
もちろんゾンビになった老人は気の毒だが、でもゾンビになる前からそうとう気の毒な感じだったし、むしろゾンビになって人を襲ってる姿を見たら、そっちの方がパワフルで元気そう。
だって顔、めっちゃ怒ってるやん。
そうなのだ。ここに登場するゾンビの特徴は、みーんな顔がめちゃくちゃ怒っている。まるで、生前(?)からの憎しみをそのまま発露させているかのごとき表情。

ソウルステーション5


考えてみれば、この映画には「感じのいい人」がほぼ登場しない。
本作の登場人物は、メインであれ脇役であれ、感じ悪いか、怯えてるか、あからさまに怒っているかのどれか。

まずへスンからしてそう。ヒロインと呼んでもいい立ち位置だが、なんかそう呼べない。何せ無防備で脇が甘く、流されやすく、他人の食い物にされまくってても抵抗しきれないトコトンダメ子ちゃんで、どうしたって共感されにくいタイプだから。
彼氏のキウンなんて言わずもがなのクズだし、かろうじてへスンの父親として登場するオジサンは常識的な感じに見えなくもないが、それがなかなかどうして実は……なキャラだったりして。

とにかく、駅員や警官や大家なんかは自分より弱い立場の者にめちゃくちゃ冷淡で、若者たちはダメ男とダメ子がくっつき、大勢のホームレス達は互いに足を引っ張り合っている。
こんな状況の彼らに対して日本のお偉いさんなら、きっと「自己責任だ」「自助でよろしく」と言って切り捨てゴメンするだろう。要は皆、行き過ぎた資本主義のおかげで他者を思いやる余裕がない状況に追い込まれているわけで、だからこんな殺伐とした世界ができあがるのだ。
韓国も日本も。
冒頭でエキストラによってぶっこまれた「福祉は万人に補償されるべきだよな-」ってセリフ通り、どんな性格の人間でも、どんな能力があってもなくても、ただ生きていることだけを条件とし、住む家を含めた(人間らしい生活を送れる)最低限の補償さえしてくれれば、こんな地獄には仕上がらない。そのことは、日本に住んでいればよーくわかる。

監督が、こんな地獄みたいな世の中にうんざりしきって「いっそ、ゾンビでも放り込んだろか」って思った気持ち、なんかわからないでもない。
地獄オン地獄。まあ、そこはフィクションですから。
まさかこの後、コロナというモンスターが世界中に放たれるとは思わなかったでしょうしね。

「緊急事態ですから」の罠に気をつけろ

コロナ禍も二年目に突入して「緊急事態」という言葉にもずいぶん慣れた感があり、この語にかつて付随していたはずのインパクトも危機意識も薄まりつつある今日この頃。

『ソウルステーション パンデミック』でも「緊急事態ですから」というセリフが警官によって何度も発せられる。
「緊急事態ですから」 と言うから、「緊急事態だから何なのだ」と思っていると、つまりそれは「緊急事態なので、ゾンビ封鎖のために必要とあらば生きてる人をも見殺しにします」と言う意味だったりして、ゾッとする場面がある。
とりあえず、これが単なる「映画の中だけの恐ろしい話」としてスルーできることではけっして無いことを、日本に住まう人々は皆知らなければなるまい。

なぜなら、最近日本でも「ゾンビ」が復活しつつあるからだ。
彼らは「改憲ゾンビ」と呼ばれ、不定期的に「改憲の機運が高まってきた」などと大ボラを吐き「どこがだ!」というツッコミにもめげず、しつこく憲法改正を求める動きをし始めるのである。その彼らとは、前首相らを含む保守派の改憲論者たちのこと。
つい先日、「国民投票法改正案」がコロナ禍のどさくさに紛れて通ってしまったことは、記憶に新しいところだろう。これが通ることによってある意味改憲推進を国民にアピールできたことになり、ゆえに改憲そのものにも一歩近づいたことになる。
ちなみに私自身は、憲法改正そのものに反対しているわけではない。ただし、現「自公政権」における憲法改正には断じて反対という立場だ。なぜなら、自民党の改正草案の中に「緊急事態条項」なるものが入っているからに他ならない。(改正草案は全体的に酷いけど)

我々が「緊急事態宣言」という言葉に慣れてしまった今、「緊急事態条項」なるものが憲法に加えられても別にいいんじゃないの?って思ってしまう人が増えることは本当に困る。この二つは、名前は似ていてもまったく別物だということを国民全員が知るべきだし、知らせるべきだ。
さらに、こうした有事には「もっと強制力の高い法律が必要なんだ」と、あくまでも正義の下に「緊急事態条項」が憲法に必要だと考える人が増えることも心配。超心配。

まずこれだけは言いたい。

日本でコロナがなかなか終息しないのは、政府が軒並み愚策を連発させているせいであって、「日本国憲法に緊急事態条項がないから」では、まったくない。コロナ禍をいいことに、愚策連発の張本人達が「やっぱり緊急事態条項必要だよね」とかもっともらしいことを言って、改憲をぐんぐん進めようと張り切っている。この「一体どの口が言ってんだ」の面々が、いわゆる改憲ゾンビと呼ばれる人々だ。彼らは、まさにこのコロナ禍こそが最大のチャンスだ!とばかりに狙いに来ている。

こうした「惨事のどさくさに紛れて、国民にとって不利益になる法律をしれっと通す」というやり口、これがいわゆるショックドクトリン(惨事便乗型資本主義)というやつで、これまでも散々我々は理不尽な法律を通されてきたのだ。がしかし、これはあかん。断じて。
「緊急事態条項」なんてものは、絶対に憲法に加えてはダメ。

さて『ソウルステーション パンデミック』に話を戻すと、国は「緊急事態ですから」という理由で、まだゾンビになっていない生きた人間を見殺しにしようとしたわけだ。
それって酷くない?って、誰もが思うはず。そう、誰もが。当たり前だ。
でも、もし憲法に「緊急事態条項」があったら?
そう、出来るんですよ。合法的に。生きた人間を見殺しにすることだって、可能になるのですよ。信じられないことだけど。

※以下、「自民党日本国憲法改正草案」より一部抜粋

第98条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
第99条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

つまりはこれ、内閣総理大臣が閣議決定だけでめっちゃカジュアルに「緊急事態の宣言」を出すことができ、さらに「法律と同じ効力を持つ政令」を内閣の判断だけで好き放題バンバン作れちゃうわけ。
ちなみに、必要とあらばどんどん「延長も可能」とな。

韓国が舞台の映画内では「戒厳令」が敷かれるかもしれないと言っていた。「戒厳令」が出れば、軍に権力を一極集中させられるわけだが、「緊急事態条項」が適用されれば、内閣に権力を一極集中させられるようになる。

つまりは、何か有事と認められるような事態が起これば、内閣総理大臣の独裁国家が簡単にできあがってしまうというわけだ。
ゆえに、その時の総理大臣が「国家を救うためなら、人間の命を犠牲にしてもかまいませーん」という残酷な正義感の持ち主だったら、「緊急事態ですから」の一言でゾンビ封鎖のために生きた人間まで見殺しにされかねない。
大げさじゃなく、それくらい危険な改憲案であることを一人でも多くの国民方々が知ることを強く願っている。

かの「ナチス・ドイツのヒトラー独裁」も、この緊急事態条項により可能になったということを忘れてはいけない。

私は怖がりのホラー映画好きだが、貞子やゾンビに怯えて眠れなくなるようなことはもうなくなったと先にも述べた。

しかし改憲ゾンビの復活および、その力が強大になって、実際に日本で「緊急事態条項」を盛り込んだ日本国憲法が成立してしまうことには、本気で怯えている。

今でもしんどいのに、ましてこれほど危険で理不尽な改憲など行われては、地獄(格差社会)オン、地獄(コロナ禍)オン、地獄(独裁国家)で、見事地獄の三層ミルフィーユ。
もしも改憲の国民投票が決定したら、私は徹底して抗い闘うつもりだ。
「国民より国家が大事」なんてのたまう内閣独裁政権の下で、あらゆる制限をくらい、自由を束縛され、貧乏を強いられ、生きながら死んだように暮らすリビングデッドになんて、私は絶対になりたくないので。

(END)

『ソウルステーション パンデミック』(原題:Seoul Station)
2016年公開/92分/韓国
監督:ヨン・サンホ
脚本:ヨン・サンホ
声の出演:シム・ウギョン イ・ジュン


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