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『水の駅』(作・太田省吾)を観る

 韓国・釜山にて太田省吾『水の駅』を観る。1981年に劇団・転形劇場で初演されて以降、国内外で高い評価を得て様々に上演されてきた沈黙劇の傑作だと言う。(今回の舞台は、釜山市立劇団の俳優たちと、東京を拠点とする劇団「世amI」の日本人俳優で構成され、演出は「世amI」を率いる金世一氏。)

 いつものことながら私は演劇には本当に疎いので、なんとなく凄そうだというイメージのみで釜山まで観劇に赴いた。何の因果か、今年の秋に上演するための戯曲の脚本と取っ組み合っている最中であり、〆切り間近にも関わらず未だに何にも進んでいない原稿を置いて渡航していいものだろうかと迷いはしたが、人間元気な間に色々しておかなければと思い、真っ新な原稿に後ろ髪を引かれつつ私は飛行機に乗った。

 舞台の真ん中にある蛇口からは、もどかしいくらいの量で水が細く流れている。蛇口の他はゴミが打ち捨てられた瓦礫の山。戦争でもあったかのように侘しく荒廃した土地で、水だけがきらきらと美しく、何やら神秘的にさえ見える。そんな水の流れに惹かれて、人は水場に吸い寄せられる。流れる水が水槽を叩く音は最初から最後まで鳴り止むことがないが、訪れた人がコップに汲んだり、あるいは触れたりすることでふいに音が止む。そしてまた水は延々と流れ、人々もまた去って行く。

 ところでその「人々」というのは少女だったり女だったり老婆だったり男女だったり、と絵巻物をすべらせているような感じでそれぞれに現れてはまた何処かへ消えて行く。もちろん誰も喋らないし、全ての動作はとにかく遅い。(俳優の動作が遅いということが表現の上でどうなるのか的なことは私はまだあまり理解しきれていないのでこの辺りは割愛!)

 というわけで細かい説明を省けば大枠はそんな感じの演劇だったと思う。
寝るのではないかと危惧していた私だったが、気付けばしっかり見届けていた。

 水場を発見した人たちは、最初こそ欲望のままその水を飲んだり汲んだりするが、それ以外にも変化が起きる。いかんせん沈黙劇なので全ては想像に過ぎないが、相手の存在を見つめ直したりだとか、自分の気持ちに気付いたりだとか、そういうやつだ。最も分かりやすいものだと、水を飲んでいた男女がやがてその場で抱き合う様子。ざっくり考えるに、水に触れたことで己の「欲望」を悟るのではないだろうかと思う。それはただの肉欲だけを表すものではなく、まさに「喉が渇いたから水を飲む」という単純な「欲」も含まれる。その延長に「純粋」や「純真」を見据えても良い気がする。

 しかしながら水を得て何らかの変化を起こした人々は、ふとその様子を他者に見られていることに気付く。すると、我に返ったようにして水場を後にしてしまう。(一方でそれとは関係なく水に満足して去っている者もいる気はする。)

 とかく人間は生きていると自分の心をないがしろにしがちだ。成長すればするとほど、社会の中で生きれば生きるほど、自分の心を隠してしまう。人間は一人でないからこそ、他者によって幸福にもなれば不幸にもなることがある。そうこうしているうちに、まるで自分の人生が他者に乗っ取られでもしたかのような状況に陥ることだってあるだろう。私は就職や結婚の話になるとよくそういう気持ちになる。就職するべきとか結婚は早くするべきとか、納得しようとすればするほど苦しくなる。そういう時、私は自分の「欲」を一時的に見失ったのだと思う。一体それは誰の望みで誰の判断なのかとよくよく考え直すと、単なる人の意見に過ぎないのだ。しかしながらそういう自分と他者に挟まれて苦悩し生きるのが人生、というものなんだろう。

 なんとなくそんなことを考えている間に、一方で私は「水の駅」がだんだんと一人の人間が持つ心の中を描き出したような舞台に見えてきた。俳優の演じている人物はそれぞれに異なるごく微細な、喜怒哀楽だけでは到底言い表せない人間の持つ膨大な「感情」を擬人化したもので(ご存知の方は『はたらく細胞』をイメージして頂きたい。)、「感情」は「欲」を得て様々に変化する。第三者であった者は「理性」かもしれない。その「理性」は無防備に振る舞う「感情」を抑制するが、自信もまた「欲」を飲んで「理性」としての立場を失い、新たな「感情」になって心の中を移動する。「水の駅」は一人の少女から始まり、一人の少女で再び終わった。それはループや輪廻を思わせるような終わり方で、終わりなき人間の感情の巡りではないか、と思う。だって、ぐるぐる考えることを「逡巡」って言うしさ!ちなみに人物が時折外を見て(実際には遠くを見るような感じ)、怯えたりするような場面もあるのだが、これは心の外である外的ストレスを垣間見た瞬間なんじゃないかな?など。

 というわけで結構なこじつけをしてしまったが、他にも「裸足であること」や「靴」に関しても考えたいし、「水の駅は "見ずの駅" 説」そして「沈黙劇 "珍目撃" 説」も……と何だか詳しい人が読んでいたら怒られそうなのでやめておく。

 雑な考察はさておき、とにかく一つの素晴らしい舞台を観ることができて良かったのと、今になって何故だか少し前に見たクロード・レジの『夢と錯乱』を思い出した。あれも心の心象風景っぽかったからだろう。人間てもどかしい生き物だなあ!、と釜山を後にし、無事に帰国するも、再び何も進んでいない自分の脚本を目の当たりにする。ああ、いよいよ絶望的な気分が増しつつ……。

(水の駅 물의 정거장 /釜山市民会館 2019.04.08〜13)


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