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レシーフェのライム入り味噌汁

7年前のブラジル・サッカー・ワールドカップ。日本代表の初戦は、ブラジルの地方都市レシーフェだった。TV中継でその都市の名前を聞いたら、30年以上前に学生の時の貧乏旅行でその街に数日滞在したことを思い出した。

思い出したといっても、おそらく行ったであろうレシーフェの街の観光名所やブラジル北西部(ノルジエスチ)名物の料理でもなく、脳裏に浮かんできたのは、しとしとと雨が降る暗い夜の路地をホテルから歩いていった、小さな日本料理屋のカウンターでの夕食での出来事だった。

その80年代の頃は、まだVARIGというブラジルのフラッグシップの航空会社が健在で、今思うと破格の価格設定だが、たしか3万円くらいで21日間ブラジル内の国内航空便を乗り放題というチケットを、海外からブラジルに訪問する旅行者に販売していた。

このVARIG航空は、その後社会人になってから東京からブラジルへの”直行便"(厳密にはLAで3時間給油)での出張で10回近くお世話になったが、東京から27時間の旅を経てリオのガレオン空港に着陸の前に、Samba de aviaoジェット機のサンバというアントニオ・カルロス・ジョビンの曲が必ずかかっていて、それがなんともカッコいい航空会社だった。

先日、クラブハウスでサンパウロ在住のブラジルの航空会社勤務というブラジル人とたまたま話したときに、そんな話しをしたら、すみません自分は90年代生まれなのでVARIGという航空会社あまり知らないんです、あったというのは知ってますが、と恐縮された。今は昔、伝説のフラッグシップ。

ぼくの当時の貧乏旅行はひたすら陸路で大方がバスか一部ヒッチハイクだったが、ブラジルだけはアルゼンチンから国境を越えてイグアスの滝を堪能した後は、たしか10便近い国内便フライトを数日毎に乗り次いで、広大なブラジルを空で飛び回った。贅沢な、空の旅の3週間だった。

最後はたしかボリビア国境方面のカンポ・グランジで降りて、西へとボリビア・ペルーに向かった。すべてあの安い周遊券のお陰だった。ありがたかった、ブラジルは広いので。たしか、旅程に重複はだめだったが、リオからアマゾン上流のマナウスに飛んでからブラジリアに行ってそこからサルバドールに行く、というような無茶なフライト・スケジュールは許されていた。

それら都市をどういう順番で飛んだかよく覚えていないが、どこかの空港で大幅遅延があって、それでありがたく夕食券をもらって、それで目的地にはかなり夜遅くたどり着けたということがあった。その時の目的地が、たしか北東部のレシーフェだった。

その遅延があった空港で夕食券をもらって、空港内の指定のレストランへと歩いていってはいると、日本語が聞こえた。みると、5人くらいの日本人のおじさん集団と、小学校高学年くらいの女の子と低学年の男の子を連れた30代くらいの日本人女性がテーブルに座っていた。

かなりがやがや混んでいたので、ぼくはその母子3人のほうのテーブルに同席させてもらった。たしか、旦那さんの仕事の赴任の関係で先に赴任した旦那さんに遅れて家族が合流することになって、日本からはるばる30時間くらいかけて米国経由でブラジルについたばかりだが、まだこれからレシーフェに飛ばないといけないという話しだった。

たしかに小学校低学年の男の子は長旅でぐたっとして眠そうだった。海外に行くというからか、身なりのきちんとしたワンピース姿の小学5年くらいのお姉ちゃんは背筋をピンとしっかりして、ちょっとまだ海外に来たことに緊張していた。こちらは、南米貧乏旅行開始アルゼンチン・ウルグアイを経て1ヶ月がたった頃だったのでだったので、無精ヒゲぼうぼうによれよれシャツに擦り切れ始めたジーンズ。一応怪しい人ではありませんのでをアピールをしつつ、3人と食事をした。アピールがてら、かなり片言のポルトガル語で食事のオーダーを助けてあげて、それで無害な優しい大学生として、お姉ちゃんにも若干好感度向上。

となりのテーブルの日本人おっちゃん5人組は、たぶん酪農関係かなんかの視察の人たちで、飛行機遅延があったからか、すでに飲んで酔っ払っている感じだった。何人かは酔って顔が赤かった。それで、ポルトガル語どころか英語も片言なのだが、やたら明るい。たぶん、肉をパンで挟んだのを食べたいといいたいのを、ブラジル人のウエイトレスに「ビーフ、パン、サンド・サンド」と挟む仕草をする。ぼくは、サンドって挟むって意味はないんだけどな、サンドウィッチ公爵が発明?したというだけでサンドだと挟む意味はなくて単に「砂」なんだが、と思って可笑しかったが、小学生のお姉ちゃんは下品な日本人、やだな、という顔をしていた。

しまいに、コーヒーにミルクをいれてというのを、ミルクという英語が通じないとなると(ポルトガル語はLeiteレイチで全然違う)、おっちゃんの一人が牛の乳を絞るしぐさをしてみせると、ウェイトレスは爆笑でおっちゃんたちもゲラゲラ笑う。すると小学生のお姉ちゃんは顔をしかめておかあさんに、「恥ずかしい。。。」と小声で言う。おかあさんは、あの人達、たぶん牛の世話とかやっている人たちなのよ、とか説明していた。落ち着いた上品ないいおかあさんだった。海外生活に夢膨らませて久しぶりに会うおとうさんとの再開に胸踊らせていた少女には、飛行機遅延、乳搾りのおっちゃんは、さぞかし幻滅だったか。僕は、なんだかとても可笑しかった。それでこの光景をよく覚えている。

無事に飛行機は離陸して、予定を6時間だか遅れて、夜遅く、北東部の都市レシーフェに着く。当然ホテルとか予約してなかったので、どうやってホテルにたどり着いたかはよく覚えていないが、初めてのブラジル北東部ということで、ちょっと緊張しての到着だったはずではある。

というのは、それまで所謂貧困な地域や国というのは訪問したことがなく、その南米の旅でも後半にボリビアやペルーが登場するが、ブラジル入りするまではアルゼンチンとウルグアイというヨーロッパみたいな国だけだった。

バイブルのガイドブックThe South American Handbookを読むと、たしか、ノルジエスチ、北東部の当時の平均寿命は19才だかなんかで、え!?と思って読むと、乳児が1才になるまえに貧困や栄養出張でかなりの比率で死を迎えるので統計的に平均寿命がそうなるんだとか書いてあった。ひゃ~それは大変な地域だと思った。おそらく、もはや今は、このノルジエスチの状況は80年代の当時より飛躍的に改善しているとは思うが。

たしかに町並みは、よりラテンアメリカというよりアフリカ色が強いなあと思ったが、とくに治安が悪いとかいう感じなく、普通に観光してまわったと記憶している。近場の古い街並みの町に行ったような気もする。詳細あまり覚えていない。いま実家にいって当時の写真とかみれたらもう少し記憶がもどるかもしれないが、驚くほど、この部分の記憶がない。

たしか3、4日滞在した初日に食あたりで腹をこわして、ちょっと体調が悪かった。それで、3日目の夜だったか、最後の夜だったかに、昼間にみかけた安宿から歩いてそんなに遠くないところの日本食の店で夕食をとることにする。たしかその1ヶ月ちょっとすぎていた南米の旅で、初めての和食だった。

小さな店だった。たしかカウンター席とテーブルが4つとか。店の名前はすっかり忘れたが、たしかなにか日本の名前。1人だったので、カウンターに座って、メニューからトンカツ定食を頼んだ。カウンターの向こうには小柄な、たぶん日本人のオーナーが黙々と調理していた。こちらは持ってきたガイドブックとか見ながら、食事がくるのを待った。

トンカツ定食はとても美味かったと記憶している。日本まんまの味。アフリカのようなブラジル北東部に、そこだけほっとする日本があった。嬉しくて、たぶん笑いながら食べていた。が、腹をこわしているのであまり箸が進まず、少しづつゆっくりとたべていた。

しばらくして、カウンターの向こうの大将が、「日本から?」と声をかけてくる。年は多分40前後、メガネをかけた寡黙な料理人という感じだった。「はい。いろいろ南米まわっているんですが、ここ来て昨日腹こわしちゃって」と話す。

ごくさしさわりのない、世間話を少しする。どの都市を回ってきたとか。

すると、店の入口から、背がちょっと高めのあご髭の20代くらいの白人のブラジル人が入ってくる。ぼくのところまでくると、僕の食事をさして何か言う。残っていたトンカツ一切れをさして食べていいかというような仕草をする。

すると大将が男に、大きなきつい声で、ポルトガル語で「でてけ!」というようなことを叫ぶ。

男は、なんでだよ、ちゃんと食べていいかきいてるんだしいいじゃないかというようなことを言い返し、楯突いてくる。すると大将は、空手のかっこをしてなにか気合の声を発すると、男はひるむ。そこへ、ブラジル人の店員がなにか棒をもってきて、男にでてけといどむ。男はすんなりと、ひきさがり去っていった。

僕は、残ったトンカツ一切れくらいあげてもいいかな、と場違いに思っていたが、ぼけっと、いきさつをみていた。

大将が、「ごめんな。よくあるんだよ」とこちらに謝る。そして、「ちょっと待ってな、店からのサービス」と言う。

でてきたのは、味噌汁だった。

これは、調子が悪い腹にもいいなあと、有り難くいただく。ひとくち飲んで、あれ?と思う。それがすなおに顔にでる。

大将がニヤリとして聞く。「どう?いける?」

僕は素直に「はい、一瞬、ゆずかなと思いましたが、ぜんぜん違いますね。なんか柑橘系。うまいです」と答える。

「今、開発中の新メニューなんだよ。レシーフェじゃ柚子ないので、ライムを垂らしてみた。ライムにうまく合う味噌汁は試行錯誤中。でも、これ、かなり完成形に近い」と笑う。たしかに、イメージとしては全然合いそうにないライムが、味噌汁に不思議に合っていた。疲れていた胃に、やさしく染みて行った。

その後味噌汁をゆっくり堪能させてもらって、勘定済ませて帰路につく。その夜、寡黙な大将とはいろいろ話がつもったという記憶はないが、ぼそぼそと話はしたはずであった。

言葉少ない沈黙の中に、大将がぽつりと「俺もいろいろあってね。いまじゃこの街に流れ着いて、こんな店やってもう7年だ」とか、寅さん映画にでも出てきそうなセリフをはく。

「君もくじけずがんばれよ、若いんだから」と、何故か励まされた。

こちらが、人生に迷って意気消沈した若者にみえたのだろうか。昔の自分に重ね合わせて、はげましたくなったのだろうか。

実はこちらは、腹こわして顔色悪くて元気がなかっただけということではあったが。

貧乏旅も、自分探しというわけじゃなく、将来学者になれたらなと当時専攻していた中南米研究での軍政からの民政移管やハイパーインフレや対外債務問題を現地で垣間見て文献集めるという大きなお題目もあって、とくに目的なく迷っているわけではなかった。

でもよく考えると、当時、確かにいろんな迷いはあったし、信念崩れめげることも多々あった。それを大将に見透かれたか。

大将が帰りがけに言う。「さっきのやつ、店の外にいるかもしれないし、他にもへんなやついるから、ホテルまでの帰り道は、道の真ん中を歩いてかえるほうがいい」

なるほど。これが現実の厳しさか。店を出ると、こちらが暴漢者になったような気分であたりをうかがい、ささっと闇の中、教え通り、道の真ん中を小走りに歩いて小雨が降る路地を安宿まで戻った。その間、緊張ハラハラだったが、幸い、ライム味噌汁のほっこりした余韻が、疲れた胃のあたりにしっかりと残っていた。■

(タイトル写真は、Note Galleryで、ブラジルで検索してでてきたなかから、いい感じのを拝借)


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