第3話 濡衣の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】

 渡辺透は濡れ衣を着させられた。と述べると何やら冤罪被害にでも合ったのかと驚かれるやもしれぬが、そうではない。さて、これはどういうことか。

 7歳年上の恋人に無残にも捨てられてしまった22歳の渡辺は、地元で一人暮らしをし、自由気ままな独身生活を謳歌している風を装っていた。実際は悲しみに打ちひしがれひたすら酒を飲み、朝方に寝付くまで元恋人への呪詛を脳内で爆発させていた。
 交代制や夜勤の仕事を繰り返した結果睡眠が上手くいかなくなり、日にビールをロング缶6本飲んでそこから焼酎をロックで飲み、気絶して数時間後に起床する生活は、確実に渡辺の精神を蝕んでいた。
 一度市民病院の精神科に通院したことがあったが、若い精神科女医に「ただの甘えですね」と言われて終わった。渡辺の母は渡辺が精神の不調を訴えると女医の言葉を持ち出し、黙って精神科に通院しようとするとそれを全力で阻止し、当然薬などは発見次第破棄の流れとなっていた。
 それでも渡辺は表向きは余裕を装っていた。

 登録している日雇い派遣会社からの仕事のメールを待つが、すぐに返信しなければ先に奪われてしまう。幾多の派遣会社に登録しているが、兵庫県の山奥の山奥では求人自体が少ないようで、金が、仕事が、ガソリンがなくなり、家賃の支払いも遅れてしまうという悪循環に陥っていた。
 二度、母に頭を下げて家賃を肩代わりしてもらったが、両親に渡辺を養う余裕などはなかったのである。渡辺は長男で、下に3人兄弟がおり、それぞれ小学生、中学生、高校生と揃っているのだから金などあるわけがない。
 金がないのになぜ4人も作ったのかは幾度となく疑問に思ったが、人として聞いてはいけない気がして胸中に留めている。

 ――もう地元にはいられない。
 渡辺は覚悟を決めていた。
 誰も己を知らない遠い場所へ移ろう。
 そこで人生をやり直そう。
 そのためには、日雇い派遣ではいけない。

 渡辺は車で通える範囲でアルバイトを探した。今まで頑なに避けていた日中の、同じく避けていた接客業をメインに探した。
 実のところ渡辺は、コンビニアルバイトを一年強続けた過去があった。しかしオーナーが変わり、節約のためであろう夜勤を自身の家族にやらせるようになり、週5日10時間労働が週1日4時間まで減らされてしまい、転職せざるを得なくなってしまった。
 すぐに金の良さに惹かれ12時間2交代制の工場に移った。6時から18時を4日勤務の後2日休み、その後18時から6時までを4日勤務しという流れで、睡眠が完全に狂ってしまった。帰宅しシャワーあを浴びてすぐに大量飲酒で気絶し、出勤時間ギリギリに会社に着く。体に耐性ができたのか、気絶まで時間がかかるようになり、眠れないまま出勤を数日繰り返した結果、仕事を辞めた。

 渡辺は背が低く体力もなく筋力もない貧相な体で肉体労働嫌いにできていたが、高校卒業後まともな職歴があるわけでもない渡辺に肉体労働か接客業以外の仕事に就けるわけもなく、しかし就けたところで持ち前の根気のなさを発揮しすぐ辞め、繰り返しているうちに何もかもどうでもよくなってしまった。

 求人雑誌で目についたところに適当に応募し、いざとなったら首でも攣ればいい、と投げやりで危険な思考にたどり着いてしまった渡辺は、頑なに選ばなかった土木作業員の求人に電話をかけた。兵庫県は姫路市の海沿いに位置する会社であった。
 そこは寮に食事までついてあり、日当も悪くなく資格も職歴も不問とあった。
 さて、行ってみると、驚天動地の求人であった。

 部屋が、2畳の広さしかない。部屋を出て廊下の突き当りに共同のシャワールームとトイレが備えつけられていると、50前後の面接官から説明を受ける。
 2畳に、ネットカフェにあるようなリクライニングチェアと小さな液晶テレビと同じく小さな冷蔵庫だけがある。壁には小さな窓がついている。
 それで寮費は月5万だという。
 食事は1日3食で3食共が仕出しの弁当。
 それで食費は月4万だという。
 日当は8000円で月に15万。そこから寮費と食費9万と光熱費1万円が引かれて、手取りは5万円。
 面接官は渡辺に一通りの説明をした後、「ここは君みたいな若者が来る所じゃないよ。悪いことは言わない。他を当たったほうがいい」と静かに言い、交通費と称し渡辺に1000円札を渡した。

 家に帰った渡辺は、熱いシャワーを浴びながら今後の金について考えていた。そしてふと、最近連絡を取っていなかった幼馴染の久保田俊夫の存在が頭に浮かんだ。渡辺と久保田は家が近所で保育園から同じ所へ通っていたが、クラスが同じにならなかったため、中学の部活で初めて会話を交わしそれ以来の仲となった。
 所謂オタクグループに所属していた渡辺と久保田であったが、神が余り物を並べただけの見るも無残な見た目の渡辺に対し、久保田は伊勢谷友介似の見事な面をしていた。当然クラスメイトの女が放っておくわけもなく、渡辺らとオタク趣味で盛り上がりつつ女をとっかえひっかえするというバットマンのような二重生活を続けていた。
 久保田の兄も弟も顔に恵まれており、何度も家に行く内に挨拶をするようになったが、久保田も兄弟も顔の良さをアピールしない謙虚さを持った非の打ち所がない好青年であった。
 大抵このようなイケメンと一緒にいれば少しはおこぼれにも預かることもあるのではと邪推してしまうだろうが、そのようなことは一度もない。渡辺らと女性らは一度も交わることはないのである。渡辺のような外見も内見も0点の男などに紹介するメリットなど皆無なので当然は話だが。

 その久保田であったが、大学に通いながらコンビニでアルバイトをしていた。
 渡辺は「ちょっと頼みがあるんだけど」とメールをした。するとすぐに「金なら貸さんぞ」との返信が。渡辺は「そうじゃなくて、久保田のコンビニを紹介してくれ」と送る。しかし「就活に集中したいから辞めたよ」との返事であった。頼みの綱も絶たれた渡辺は苛々としながら立て続けに煙草を吸う。生きているだけで金がかかる。煙草も辞めなければならない時が来る。
 3本目の煙草に火をつけた瞬間、携帯電話が震えた。久保田から「店長に聞いたらアルバイトを募集してるってさ。俺からの紹介とは言ってないから、電話して面接受ければ」とのメール。渡辺はお礼のメールを送り、早速コンビニに電話をかけた。

 そして渡辺は、深夜のコンビニアルバイトにありつけたのである。
 そこでの濡れ衣の話である。
 コンビニは経験済みであるので仕事自体はスムースに進んでいた。同じく深夜働いている大学生とも話すようになり、気がつけば一ヶ月が過ぎていた。
 家賃が払えることに安堵した渡辺であったが、ある日22時の出勤早々オーナー夫人にバックヤードに呼ばれた。オーナーは60代の香山誠一という男で、その妻である春子がシフトが埋まらぬ時にヘルプで入っていた。善良そうなオーナーとは違い、夫人はたかが夫のヘルプであるのに立場をわきまえず傲慢な振る舞いを繰り返していた。渡辺は、オーナー夫婦がコンビニいない時、他のアルバイトが陰口を言っているのを何度も見かけていた。
 なにかミスがあったのかと不安を懐きつつ、ペットボトル飲料の棚の裏の冷蔵庫に呼ばれるまま入ってみる。缶やペットボトルが段ボールに入ったまま積み上げられている冷蔵庫は、棚に裏側から補充できるようになっている。
 であるので補充を忘れたのかと思っていると、春子は段ボールの隙間から飲みかけのペットボトルコーヒーを取り出した。
「これ、あなたよね?」と言われた渡辺はなんのことかわからずコーヒーをただ見つめている。春子は続けて店員が飲み物を買って裏で飲む場合は購入したレシートを貼り付けるルールがあると言う。渡辺は当然知っていたので「僕もそうしてますよ」と答える。
「これ、レシート貼ってないよね。ここ最近、飲みかけのジュースがよく放置されてるのよ。この冷蔵庫って監視カメラないでしょ。だから、店員の誰かが補充しながら盗んでるんだよね」

 ――この女は、僕が盗んだって言ってるのか――

 カッとなった渡辺は言い返そうとして、言葉を引っ込めた。渡辺は、怒りでもって反論したところで意味はない。どういう言い訳をするかが重要だと判断した。
 というかなんというか、実際渡辺は補充の際に盗み飲みしていたのである。以前働いていたコンビニでも同じことをやっていた。
 店員であれば監視カメラでどこが写っていないかどこに死角があるかなど手にとるようにわかる。春子の言うように、冷蔵庫には監視カメラはない。だからたまに盗み飲みしていた。ついでに述べると揚げ物をやるフライヤーは死角になっている。だからたまに揚げたものを盗み食いしていた。等々、渡辺は繰り返し行っていたのである。
 当然、渡辺は証拠隠滅に気を使っていた。盗み飲みの場合はオロナミンCなどミニサイズに限定し、飲んだ後ポケットに入れて家に持ち帰って捨てていた。揚げ物は1袋いくつと数が決まっているものは避けていた。
 だからつまり、春子が渡辺に見せたコーヒーは渡辺以外の者が盗み飲みしたもので、これは誰がどう考えたところで濡れ衣なわけだがが、盗み飲み自体はしていたのである。
 ここで春子と口論して過去の盗み飲みや盗み食いが露呈してしまうこと、その結果やっとありつけたアルバイトを馘首になってしまうことを一番に避けねばならない。
 渡辺は、知らず存ぜずで通すことにした。
「僕はそういうことはしませんよ」
「って言ってもね、君が入ってから始まったのよ、この窃盗が」
「僕がやったって証拠はあるんですか?」
「証拠はないけど、そういう疑惑がある人を雇う理由もないんだよね」
 祖母育ちは三百安いとはよくいったもので、祖母にべったりだった渡辺は22歳になってもすぐカッとなる性格に、それがすぐに顔に出てしまう駄々っ子気質であった。
 だから渡辺の表情に怒りの感情が出ていたのだろう。春子はせせら笑いながら「怒ったの? 怒りたいのはこっちなんだよね」と言った。その瞬間、渡辺は「だったら辞めてやるよ!」と怒鳴りつけ脱いだ制服を春子に投げつけ、冷蔵庫を出て、バックヤードにいたアルバイトに「どけ!」と一括し大股で店を出た。怒りに震えた手で車のエンジンをかけ、家に戻った。途中24時間営業のスーパーで眠るための酒を購入し、浴びるように飲んで気絶するように眠った。

 翌日、怒りも酔いも消えた渡辺がどう謝罪するかを考えていると、オーナーから着信があった。向こうからの謝罪かと期待して出てみると「昨日までの給料を取りに来い」とだけの電話であった。カレンダーを見ると今月は10日出勤していたので、単純計算で8万になる。それでとりあえずの家賃を支払い、その後はまた考えればよい。犯人扱いした春子への怒りの感情は未だくすぶってはいたが、それよりも次の仕事を見つけるのが重要である。8万は当然受け取る。が、もう二度とあそこの連中の顔は見たくない。考えた結果、久保田に代理を頼んだ。

 渡辺に給料を手渡した久保田は「オーナーが、もうちょっと大人になれって言ってたぞ」と困ったような顔で言った。
「大人になるのはあっちだろ、やってもない罪を着せた豚女が悪いんだよ」

 久保田が去り際に「お前って、1年以上続いた仕事ないよな」と言った言葉が渡辺の脳内を漂っていた。それは次第に、早くこんなところから脱出しないとという決意に変わり、遅れて怒りの感情がやってきた。
 そのためには金を貯めないと――

 渡辺には、金も仕事も未来もなにもない。
 全て自分が招いた結果であることに気づいているのか、気づかないふりをしているのか。
 渡辺は、紙パックの日本酒を手に取った。

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