第5話 硬直の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】

 渡辺透は硬直していた。渡辺が作業所で朝のコーヒーを飲みながらスマホをいじっていると、男が突然入ってきて、入り口入って右奥の美樹本の席まで駆け寄り、その勢いで男が美樹本の左頬を平手打ちした。渡辺の思考回路はショート寸前で、なにが起きているのか理解できず、そして動けずにいた。作業所には数人の利用者がいたが、全員渡辺と同じ様に硬直している。
 渡辺の脳裏に「やっぱ夏はアイスコーヒーだな」という言葉が浮かんだ。現実逃避の一種なのだろう。
 美樹本はボクサーのように両腕を盾にして体を守り、その腕を男が殴っている。美樹本は180センチのがっしりとした体格で、男は美樹本より少し背は低いが半袖のTシャツから伸びる焼けた腕は渡辺のガリガリ腕の2倍はあった。
 何度目かのストレートで奥のスタッフルームから所長の二郎とスタッフの久保田が文字通り飛んで来た。二郎は男と美樹本の間に入り久保田が男の背後から両腕を掴んだ。
 二郎は美樹本を、久保田は男を抑えて下の倉庫兼休憩所へと連れていった。ドアが閉まった瞬間、利用者全員が目を合わせた。

 その日は二郎による調理実習があったため、今日子が食材を抱えて遅れてやってきた。
「あれ? 所長と久保田君は?」
 なにも知らない今日子が困惑していると、古参の50過ぎた篠崎みどりが今あったことを報告した。すると今日子は利用者の緊張をほぐすためなのか、「よかった、私いなくて」と笑った。
 至近距離で人が殴られるところを見たことがない渡辺が興奮しながら「あの人は誰なんですか?」と今日子に聞くと今日子は「美樹本さんのお兄さんだよ」と答えた。
 今日子の話によると、美樹本の兄が作業所に乗り込んでくるのは今回が初めてというわけではなかったようだ。美樹本と兄が早朝の言い合いから喧嘩に発展し、美樹本が飛び出して出ていったのを車で追いかけて、作業所内で兄による一方的な罵倒が度々あったという。
 渡辺も、噂好きのみどりですら知らない話である。利用者からも勿論美樹本本人からも聞いてはいない。あまり話さないようにと止められていたのかもしれない。
「いつも口だけなんだけど、今日は手も出ちゃったみたいね」
 今日子ののんびりとした声を聞きながら、渡辺は殴られている間の美樹本のなにかを諦めたような表情に既視感があるのを感じていた。昔に見たことがあった。
 それは小学5年生の記憶であった。

 渡辺の地元は兵庫の山に囲まれた陸の孤島であり、現在は毎年相当な数の人口が減って幼稚園や小学校が合併され侘びしくもなっているが、当時は人口も多く小学校は市内で3校あり、クラスも3組に別れていた。そして外国人も多かったのである。
 渡辺は生まれてこの方、卑怯で卑劣で自己中心的で自分に甘く他人に厳しく陰口を好む最悪醜悪な人間であったが、こう見えて非差別非暴力主義にできていた。
 というと格好がついてしまうが、単に怖くて見て見ぬ振りをしているただの臆病者で、強者に媚びへつらうことで自らをいじめや暴力の被害を回避し傍観者としてただそこに突っ立っているだけで正義面している腑抜け人間であった。

 そんな腑抜け人間渡辺は、今日も昼休みにベトナム人の友人と教室の机で自由帳に落書きをして遊んでいた。以下ベトと表記する。
 妙に気があっていつも一緒に遊んでいた。しかし渡辺の母親はベトと仲良くしているのをよくは思っていなかった。実際に「ベト君と遊びすぎないように」と幾度となく言われたのを覚えていた。
 外国人だから心配していたのだろう。しかし、日本で生まれて日本で育ったなら、それは日本人であろうと今になって思う。が、頭ではそう思っていたも感情が同じになるだろうか。渡辺の母親は至極当然のことをやったまでであろう。
 渡辺もベトも漫画が大好きで、漫画のキャラクターを模写することに熱中していた。窓際の一番後ろが渡辺の席で、その前にベトが向かい合わせにして座っている。教室には渡辺とベトと数人が残っていた。昼休みなのでクラスのほとんどが外に出て遊んでいたわけである。
 すると突然ドアが勢いよく開き、「おい、ベト!」と大声を張り上げながら隣のクラスの男が入ってきた。ベトが声の方向に視線を動かし、表情が曇った。渡辺はベトの表情を確認し、声の方向に視線を動かそうとすると、右目の端から左腕が伸びてきて、ベトの胸ぐらを掴んだ。男は胸ぐらを掴んだ状態で手前に引き、ベトが椅子から転げ落ちた。
 そして男は右手でベトの頬を殴りつけ、「さっさとベトナムに帰れよクソ野郎!」と叫び、床に倒れたベトの頭に足裏を載せた。
「ここは日本だろ、ベト。お前らのいる場所じゃないよな」と言い、男は去っていった。
 その間、渡辺はなにもできずただ椅子に座っていた。
「ベト君、大丈夫?」
 渡辺が椅子から立ち上がり慌てて声をかけた。両腕でベトの体を起こす。ベトの顔は無表情で沈んでいた。口元は少量の血がついていた。
「僕、先生を呼んでくるわ」
 ベトは、渡辺がそう言って立ち上がろうとするのを右手で制しながら「もう慣れてるから大丈夫。先生に言っても無駄だから」と言ったその表情は、正に渡辺が見た美樹本のそれとまったく同じなのであった。

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