第2話 駆引の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】

 渡辺透は駆け引きをしていた。作業所で小林真理とである。小林真理が通所を始めて2ヶ月の間朝と夕の挨拶のみに留めていた渡辺が、小林と時間にして30分も会話をしたのである。
 留めていたと述べるとそれが駆け引きだと勘違いされてしまうので訂正しておきたい。2ヶ月間まともな会話ができなかったのは、単に渡辺に小林に話しかける勇気がなかったというだけの話である。
 しかし2ヶ月間何もせずただ見ていただけというわけではない。渡辺と小林をくっつけることを新たな生きがいとした篠崎みどりから、作業後の散歩の時間に小林の情報を流して貰っていた。
 35歳を過ぎても気になる女性に話しかけられない渡辺であるが、考えてみれば物心ついてから現在に至るまで女性とまともに会話をした試しがなかった。

 みどりから入手した情報は、年齢と出身地と恋人及び夫の有無である。年齢は42歳、出身地は岩手県、恋人も夫もいない。年齢と出身地はいいとして、恋人及び夫の有無は最重要事項であった。みどりが渡辺にそれを伝える際、残念そうな口調だったので「小林さん、彼氏いるんだって」と言われるのかと心配したが「小林さん、彼氏も結婚もしてないんだって」であったのでほっと胸を撫で下ろした次第である。
 恋人や夫がいた場合、問答無用に門前払いを食らうわけで、独身と知って渡辺の心が踊り鼻歌交じりになったことは述べるまでもないだろう。

 昼休み、60代前半の作業所歴15年、40代の寡黙な妻と通所している香山誠一が「反ワクチン団体が駅前にいた」という話を利用者一人一人に熱弁していた。渡辺は日課の読書に取り掛かろうとしたが誠一の声が大きいので、作業部屋の下にある物置き兼休憩所に避難したところ、小林と北野啓子が静かに雑談している場に遭遇した。北野は渡辺の半年後に入った40代後半の太った女性で、服用している薬の副作用でぼうっとすることが多いものの、溌剌とした一緒にいて楽しい女性である。
 8畳の広さで3分の2が物置きになっている。部屋の端に4人用のダイニングテーブルと椅子が置いてあり、小林と北野が向い合せで座っていた。小林はペットボトルのお茶を飲み、北野は日課である食後のデザートのプリンを食べていた。
 北野が渡辺が部屋に入ってきたのを確認すると、「誠一さんうるさいから避難してきたんでしょ」と笑いながら言った。見事なパスである。渡辺も「熱くなっちゃってるみたいで」と笑って返した。
 そしてその流れで小林の隣に座る。この2ヶ月で最も接近した瞬間で、渡辺は視線を定められずにいた。作業所ではコロナ対策でアマスク必着なため顔の下半分は見えないが、目は一重で少し吊り上がっており、化粧は濃い目に仕上がっていた。眉もちゃんと描かれている。
 渡辺は物心ついた頃から一重の吊り目に性的興奮を覚える性癖を持っていた。髪の毛は黒のポニーテールで、前髪からすべて後ろでまとめていた。渡辺は物心ついた頃からショートカットに性的興奮を覚える性癖を持っているが、髪型などどうでもいいのである。目玉は至って普通のものである。渡辺は目玉には性的興奮を覚えない。
 主に北野が喋り、それに小林が相槌を打ち、渡辺が一言二言返す。合間に渡辺が北野と小林二人に質問をし、返事があり、という健全な雑談は15分間継続した。

 13時になり火曜午後の散歩が始まる時間となったため2階の作業部屋に戻りながら、渡辺は脳内で雑談で反省すべき点を洗っていた。
 岩手県出身者に震災の話題を振ってしまったこと、小林の質問に答えたつもりがマスク越しのため声が通らず何度も聞き返させてしまったこと、後半北野の存在を忘れかけてしまったこと、小林が北野のおやつに反応したのに自分は無反応をしてしまったこと、雑談初回でどの当たりに住んでいるのかと訊いてしまったこと、等々を考えながら作業部屋の奥にあるロッカールームに散歩用の靴を取りに行こうとすると、作業所の所長である二郎に呼び止められた。
 二郎は40代半ばの痩せ型の男性で、利用者に丁寧で低姿勢を貫くできた人である。渡辺は詳しくは知らないが、どこの作業所も人手不足のようで、専業主婦をしている妻の今日子が挨拶ついでに仕事を手伝ったりしていた。であるので渡辺含めた利用者は皆二人のことを下の名前で呼んでいた。
 定期的に行っている面談なのかと思い顔を向けると、二郎が申し訳無さそうに「言い忘れたんだけど、ごめん、ちょっと今日散歩駄目なのよと言った。
 話をまとめるとこうである。二郎は急遽利用者の家に訪問しなければならなくなった。散歩の責任者が二郎で、二郎がなんらかの理由により散歩できなくなった場合今日子が代わりに散歩を取り仕切る。が、二郎の母が風邪をひいてしまい一日その面倒を見る。故に散歩を取り仕切る人間がいなくなったため、午後は全員で検品作業をすることになっていたようである。昼休みに伝えたようで、前述の通り部屋にいなかった渡辺、北野、小林に伝えられていなかったという。
 検品作業を取り仕切るのは利用者から選ばれた作業責任者なる男女二人で、なにかあった場合利用者は作業責任者に報告する。作業責任者の判断がつく場合は指示し、そうでない場合は久保田という30前のスポーツが趣味で年中日焼けしている高身長の好青年が作業担当者を名乗っているため久保田に話を通す。
 所長の二郎が、利用者だけで作業を回せる状態が良いとのことでこのシステムになったようだ。勿論人不足というのもあるだろう。正規のスタッフは二郎と久保田しかいないのである。

 そして2時間作業をし、15時にすべてが終了する。それぞれ作業日誌を書いてタイムカードを押し退所となる。渡辺が、今日小林と雑談できた嬉しさでふわふわしながら帰ろうとすると、久保田に呼び止められた。
「渡辺さんって、電車だよね?」
 利用者全員が久保田より年上のため名前は敬称づけ呼ぶが、言葉遣いは親しみを込めてフランクにしている。
「はい、そうですよ」
 渡辺が困惑していると、久保田が両手を合わせて「申し訳ないんだけど、今日、送迎で帰ってくれないかな」と申し訳無さそうに言った。渡辺は通所を始めて5年になるが、このようなお願いをされたのは初めてであった。とはいえ別に断る理由もないので了承し「そうか、二郎さんも今日子さんもいないんでしたね」と返すと、久保田が言いにくそうに小声で「それもあるんだけど、ちょっとね……」と言葉を濁した。渡辺もいい大人なためそれ以上は聞かないでおいた。

 一人で公共交通機関を使えない者、心配する親の要望、コロナウイルスの件、その他と様々な理由で送迎車で送り迎えされている利用者がいた。渡辺は物覚えが悪いので未だにどこへ行くにもスマホで乗り換えを確認しているが使えないというわけではないので、一人で電車で通っている。交通費は全額が支給されるので何の問題もない。家と作業所が離れており時間がかかるが、その間は趣味の読書に没頭すればよい。送迎車は座っているだけなので電車より楽ではあるが、近い者から順に送迎するため電車より時間がかかってしまう。その辺りのことは入所の際に書類等で説明を受けていた。
 しかし、送迎車で帰ってくれと言われたのは初めてである。が、車に乗った瞬間渡辺にもその理由がわかった。

 結論から述べれば、小林と美樹本である。
 美樹本は、50代の大柄で髭面、無口で威圧的な態度を取り、スタッフにも敬語を使わない我が道を行く男である。その美樹本が20歳近く離れている小林に飲みの誘いをした話を渡辺は散歩の時間にみどりから聞いていた。断られても諦めず誘いを数度繰り返し、所長から厳重注意を受け流石に諦めたかと思っていたが、そうではなかったのである。
 送迎車は9人乗りのハイエースで、片側しかドアがついていないため家が遠い者から奥に乗り、近い者が出られるようにしている。挨拶をし外に出て送迎車を待つ。渡辺の後に小林がやってくる。渡辺はその時初めて、小林が送迎を使っていることを知った。渡辺はニヤついていた。昼休みだけでなく帰りも話せる可能性がある。マスクをしているためどれだけニヤついたところでばれるわけでもなく、なにを話そうかと脳内でイメージトレーニングをしていると、その後に北野と美樹本がやってきた。その姿を確認してすぐ、渡辺は「あれ? 美樹本さんってバスじゃなかったでしたっけ?」と訊いた。美樹本は定期的に遅刻をしていたが、その理由にバスが来ないと言っていたのを渡辺は覚えていた。
 渡辺と美樹本は1年前に些細なきっかけで揉めたことがあったため、お互い話すことが皆無に近いことになってしまっていた。が、作業に利用者同士会話する必要がないため特に問題視することもなかったのである。
 美樹本は「バスが面倒くさい時にたまに使ってるんだよ」とのことで、渡辺も納得し車に乗ろうとすると、運転席の久保田が「小林さんが奥でその隣が渡辺さんね。で、ドア側に美樹本さんね。北野さんは酔うから助手席で」とてきぱきとした指示をした。
 前述の通り遠い者が奥に座る。渡辺の家が一番遠い。であるから座り順としては小林、美樹本、渡辺になる。釈然としないが隣が小林であればその間ずっと雑談ができるし、美樹本が降りた後に美樹本についての話を振ることもできなくはない。

 渡辺が小林と雑談しようとすると、美樹本が体を前に倒し小林に話しかけた。渡辺など存在しないかのような動きに少し引き気味になっていると、無口で無愛想な美樹本が小林にこの後どうするのか、休みの日は何をしているのか、等々を嬉しそうに訊いている。それも真里ちゃん呼びである。渡辺はその様子に背筋が凍ると同時に尊敬の気持ちが芽生えるのを感じた。小林に好意があることを隠すどころか全面にアピールしている美樹本の姿に尊敬してしまったのである。これは小林の感情や思いを無視しているということでもあり、自分がよければそれでいいという自己中心主義に尊敬してしまったのである。
 すると信号で止まった久保田が「はい、美樹本さん、ちゃんと座って。コロナだから車の中は会話禁止って言ったよね? 守らないなら降ろすからね」と言った。その瞬間、渡辺は久保田からの懇願の理由がわかったのである。次いで久保田が美樹本が好きなサッカーの話題を話し始めた。
 であるから渡辺は自分の仕事を全うすることに決めた。それは、美樹本の家に着くまで小林と会話をすることである。最も誰に頼まれずともそれをしようと決めていたので、話しかけるのは好意ではなく理由があるという言い訳である。休憩所に行ったのも、小林に好意があり追いかけていったのではなく誠一がうるさいからであるという言い訳でのことで、渡辺は言い訳がなければ動くことができない。好意があることが小林に悟られてしまった瞬間にすべてが終わってしまうため隠し通さなければならない。

 美樹本の家に着くまでの15分間、渡辺は必死になって話題を提供し続けた。小林は緊張もあるのだろうが活発に話すというわけではないので、会話がすぐ終わってしまう。終わりそうになると話題を提供する。渡辺は自分のことをべらべらと語ることを苦手としていたが、そんなことを言っている状況ではない。好きな作家だの音楽だの映画だの、先月ライヴに行っただの過去に閉鎖病棟にいただの、所謂自分語りをし、その後に小林に質問する。渡辺は村上春樹が好きで小林は東野圭吾が好きで、渡辺はオアシスが好きで小林はアリアナ・グランデが好きで、等々、汗をかきながら必死に会話を続ける。
 楽しさもなく見返りもなく、ひたすらに無様な徒手空拳をする渡辺に駆け引きも余裕もあるわけがない。若干引き気味になっている小林に話しかけ、自分で笑い、質問し、渡辺は必死になって悲しいピエロを演じていた。
 それを後部座席から客観視している自分に気づいたが、渡辺にはどうすることもできなかった。

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