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普通の幸せが欲しかった
私の幸せは相対的で、だからみんなが持っている“普通の幸せ”が欲しい。
結婚して子どもを持つ、そんな“普通”。大多数からあぶれない、普通。それが幸せ。それが欲しかった。
小学生の頃、私はどうせ結婚が出来ないことを悟っていた。無理だと思った。そして、“死にたい”思いを飼い始めた。覚えている。田んぼの中、夕暮れ、ひとりで歩いていたあの日。
私はもう、自分の思い描くかつ一般的な“普通の幸せ”を子供の頃から諦めていた。それでもなお、どこかでそれを求めていた。手放しているから叶うはずもないのに。
幸せになりたいとは思う。生きてしまっているから。
けれど、幸せになるはずがないということは、自分を幸せにさせてあげられないということは、きちんと解っている。
普通の幸せを得るには、何歳の頃に戻ればいいのだろう。きっと、いつに戻っても得られないのだろうな。
生まれたことが、生きていることが間違いなのだろう。
うん、わかっている。わかっているのに、飲み込めていない。ずっと。なんで。そろそろ理解して自分。
普通の幸せが欲しかった。でも、それを得るための努力ができないから、もう、死にたい。全部放り出したい。なかったことにしたい。生まれたことを取り消したい。
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