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『悲しみよ こんにちは』

短くも長い人生を歩んでいると、人との関わりの中で他者にこんな気持ちを抱くことがあります。

  • 自分とは全然ちがうタイプだけれど妙に惹かれる

  • 8割くらいは好きだけど、残りの2割はどうも受け入れられない

  • 嫌いじゃないけど、一緒にいてなぜかもやもやする

そんな相手とは思いのほか仲良くなったり、対立したり、絶交してしまったりといろいろですが、こうした感情というのは、言い表すことが難しく、心にわだかまりとなって溜まってしまうものです。

ときには「こんなに大切な人をこんなにも憎めるのか!」と、心の中で叫ばずにはいられない瞬間もあります。相手を慈しむ天使のようにやさしい自分の中に、猛烈な憎しみをもつ悪魔のような自分が生まれるのを、幾度となく経験してきました。それはきっと私だけではないはずです。

サガンの『悲しみよ こんにちは』は、そんな思いを抱えたことのある人なら誰もが共感してしまうような魔力のある、フランス文学の名著です。はじめて読んだ時の衝撃は生々しく今も覚えており、数時間で一気に読んでしまいました。

少し時間をおいて再読した今、フレッシュなうちに思ったことをあらすじとともに書いておきたいと思います。
(ここからは物語の結末にも触れますことご留意ください。)


あらすじ


パリに住む17歳の少女セシルと生粋のプレイボーイである父レイモン、その恋人であるエリザは夏のバカンスを過ごすために郊外の別荘を訪れます。そこへ亡き母の友人アンヌがやってきて、交流を深めていきます。

聡明で美しいアンヌにセシルは魅了され、アンヌもセシルを慕います。そんな中セシルは近くの別荘で過ごす大学生シリルと知り合って恋仲になり、幸せなひと時を過ごします。

しかし父とアンヌが結婚を考え始めると、アンヌはセシルに勉強をさせようとしたり、シリルとの関係に口出ししたりと厳しく接し始めます。

セシルは自分と父の享楽的な生活が失われて、父をとられてしまうことを懸念して、アンヌを追いやろうと画策します。

セシルの画策とは、恋人シリルと父の元恋人のエルザを利用して、アンヌにはシリルと引き離したことへの負い目を感じさせ、父にはエルザへの所有欲を掻き立てさせるといったものでした。17歳の少女とは思えない、なかなかに恐ろしい計略を遂行していくさまは、見どころのひとつです。この計略のさなかにセシルは、シリルとの触れ合いや、社交の場でのふるまい、もつれ始めたアンヌとの関係を通してより複雑な感情を抱いていきます。

レイモンがエリザへの気持ちを捨てきれていないことを確信したアンヌは絶望して別荘を飛び出し、そして自死とも取れる事故で亡くなってしまいます。


たんに恋愛物語でなく


悲しい結末をむかえる本作ですが、単なる悲劇の恋愛物語ではありません。まだ若く青春真っ只中のセシルが、他人への愛情、憎悪、欲望、怒り、喜びなどといった人間しか持ちえない感情の混濁を経験し、アンヌとの別れによって厳かな「悲しみ」を知るということに主眼が置かれているように思います。

「原文を切ったらまっ赤な血が噴き出すのではないか」という翻訳者の言葉が心からぴったりだと思うほど、セシルの心理描写は目を見張る鮮やかさです。これを書いた当時のサガンは、セシルとほぼ同い年の18歳だったというから驚きです。

憎く愛しいひと

自由奔放な生活を好み、他者への関心の強いセシル。同じ気質をもった父のことが大好きで、そのプレイボーイっぷりにも寛容。自身も哲学の勉強よりも「太陽の下で男の子とキスする才能のほうに恵まれている」といいます。(うらやましい!)

対するアンヌは聡明で超然として、冷たくキリリとした大人の女性。まったく違うタイプのアンヌに惹かれるあまり、セシルにとって彼女は人間らしい感情をもった生身の女性というよりも、観念的な存在になってしまう。惹かれるからこそ、好きだからこそ、自分の暮らしへの影響を恐れたのです。私にはそのプロセスが痛いほど分かって、読むのを途中でやめられなくなってしまいました。


というのも、私はアンヌのような女性と出会ったことがあります。美しくてプライドが高くて、優しくも厳しく、包み込んでくれるようでありながら、相手に行動や考えを強いるようなところがある人でした。

彼女へ尊敬やあこがれを抱く一方で、決して分かり合えない部分があると感じたり、「この人と一緒にいたら人生を支配されてしまいそう」という、漠然とした恐怖がありました。

セシルの複雑な感情の揺れ動きにふれて、あこがれの人に対してさえ醜い感情を抱いてしまう自分を、嫌悪せず受け入れられるようになった気がしました。それだけでどれほど救われたことでしょう。

代償としての悲しみ

物語の最後で、セシルは父との自由な生活を取り戻します。それはセシルが心から望んだ生活でしたが、以前のそれとはまるで違い、大好きだったはずの一人の女性を失ったことの大きな悲しみという代償がつきまとうのでした。その悲しみとはセシルが一度も経験したことのない、いくつもの感情の渦でした。

「ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。」

この物語の美しい書き出しです。最後まで読んでからこの冒頭へ戻ると、初見の時とはまるきり違う感覚が立ち現れます。多くの人を魅了し、フランス文学史に燦然と輝く爪痕を残したサガンの筆力の末恐ろしさ、そしていつまでたっても瑞々しく、古びることのない物語の力を感じてやみません。



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