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特集企画「シンボルの輪郭~Shape of "Rotary"~ 第2回」

信じている。その輪郭がきっと円いことを。

高田馬場駅前ロータリーの散乱ゴミの存在を、私たちが地域課題として問題提起してからはや2年。その「問題認識」はどのように広がっているのか、あるいは広がっていないのか。散乱ゴミの存在は、なぜ問題である/問題でないと思うのか。高田馬場の地で交わる、ひとりひとりの「あなた」の視点から、散乱ゴミの問題、その「輪郭」を、この早稲田キャンパスに浮かび上がらせる。

私たちは、11月5、6日に早稲田キャンパスにて3年ぶりに対面開催される早稲田祭2022にて、教室展示企画「シンボルの輪郭〜Shape of “Rotary”〜」を開催します。これは、地域住民の皆様やロータリー広場の利用者の方々、早稲田や高田馬場に集う学生、行政や企業の方々など、高田馬場や早稲田の地域社会における様々な人びとの貴重な声を取り上げることで、ロータリー広場の散乱ゴミ問題について知り、理解し、じっくりと考えられるような空間を創造することを目指しています。

このコラムでは、この展示会開催に先駆け、これからの1ヶ月間、全3回にわたって、テーマ「シンボルの輪郭」に関する会員一人ひとりの考えや、展示会準備の模様をお伝えしていきます。ぜひ、散乱ゴミ問題に関する会員の考え方の多様性を理解していただくとともに、展示会企画に興味を持ち、足を運んで頂くきっかけになれば幸いです。

第2回の今回は、広報担当の安曇川(教育学部3年)が、今回の展示会について、企画者としての想いを語ります。


僕がロータリーの会に入会してもう2年近く経つ。入会してから数ヶ月後になぜか役員に任命され、なんだかんだ色々なことをやってきたわけだが、果たしてそれらを真面目にやっていたか。真剣に向き合っていたか。

「ボランティアは自己満足であってはならない。」

僕の入会動機は単純だった。清掃して気分が良いから、自己肯定感が上がった気になるから、というものだった。ただ、入会してみて、ロータリーの会は別にそういった人ばかりが集まっているわけではなく、求めている訳でもなく、散乱ゴミの問題に対し、どのように働きかけ、解決できるかを常に本気で模索し、実践しようとしている団体であることを知った。問題に対峙するとはどのようなことなのか、考えさせられるようになった。

問題認識とは何か。それは何かを他人のものではなく自分事として感じることである。だとすればその意味では入会時点で、僕は全く問題認識していなかった。ロータリーの散乱ゴミの存在は、全くの他者性そのものだった。目的ではなく手段そのものだった。

そんな僕は、おそらく会の中ではとても「不真面目」な会員だっただろう。朝清掃への参加頻度も次第に低くなっていったし、散乱ゴミの現場へ足を運ぶ頻度も減っていってしまった。2代目広報をやってほしいと創設者の新井さんからお願いされた時も、そんな重要な仕事が僕に務まるのかと、あまり乗り気ではなかった気がする。
 
それは昨年のロータリー広場の開放前後のことであったと思う。班長を中心とした組織体制へと移行し、本格的にサークルらしく活動するようになり、僕は広報班長として話し合いをファシリテートする役回りをするようになった。しかし、当初は会議が毎週のように紛糾し、収拾がつかなくなることや、参加率が低く、話し合いが成立しないこともあった。会員同士の考え方の違いや、それを踏まえた上での合意形成にとても難しさを感じた。

また、ロータリー広場の開放によって再開された清掃活動も、春期休暇期間中も普通にやるのだということを知った。清掃活動のためにわざわざ高田馬場まで早起き、または夜更かしして行かなくてはなくてはならない。また、役員は週2回は参加しようということになっていたので、ある日夜清掃するため西早稲田キャンパスで待機していた時、21時くらいから雨が降ってきて、そのままその日の清掃が中止となった。せっかく来て待機していた僕はそのまま帰るのが嫌になり、まだ雨がやまない中ひとりで清掃用具を手に取り、ロータリー広場へと向かった。不思議とそのときは学生がそれなりに集まっていて、しかも近くに住んでいる早稲田の2年生の人が一緒に清掃に参加してくれて、なぜか新潟のせんべいの話で盛り上がったことを今でも覚えている。
 
その頃くらいから、僕らはよく清掃活動のあり方について議論するようになった。僕たちはよく「清掃サークル」であると間違われることはよくあるが(僕も最初はそう思っていた)、創設者が山中で不法投棄を見つけたという原体験から、「拾う人」の存在を見せ続けることを目的として設立当初から平日はほぼ毎日行われているこの活動は、ロータリーの会の活動の根幹を成すものである。現場に直接、アクチュアルに働きかけるとともに、会員が現場に触れ、自分なりの問題認識を深め続けるひとつの過程でもある。

しかし、この活動を続けることには苦しさが伴う。特に遠方から通学する者にとっては、休暇期間中の参加には根気が要るものである。会員の参加率も次第に下がっており、頻度を下げるか、時間を変えるか、そしてこの活動を存続させるか否かも話し合われるようになった。

清掃活動は、ロータリーの会の活動の中でも「実践的」な活動であると捉える会員は多い。なんならそれ以外の活動は実践的ではないとする考えをもつ会員も多いと感じる。清掃活動について役員の間で議論になるとき、その議論の背景にはいつも、僕らがいかにして実践的であるべきか、アクチュアルに問題に働きかけられるかという問いに対する思索が、巡らされていたように思う。

清掃活動にこうしたある種の本来性、そしてそれ以外の班活動や学会発表、行事の準備といった地味で目立たない活動に非本来性を置くならば、清掃活動にたまにしか行かない僕は、実践していたのか。問題に対して、きちんと働きかけられていたのだろうか。

こんな話ばかりすると、「なぜロータリーの会に入ったんだ」「辞めちまえよ」という声が上がるのも仕方ないと思う。僕は中村君みたいにコミットすることはできなかったし、ロータリーの会に入会して、ずいぶんとひねくれた考え方を持ってしまったように思える。

先日も夜清掃の際、僕らの活動に興味を持ってくださった早大OBの方に声をかけていただき、「そのモチベーションはどこから出てくるんですか」と問われた。僕は考え込んだあげく、「なんだか巻き込まれているような感覚です」という、答えになっているんだかよくわからない返答をしたような気がする。

「ボランティアは自己満足であってはならない。」

そんな僕でも、ロータリーの会の活動を通して様々なことを考えるようになった。いや、「考えられるようになった」といったほうがいいかもしれない。

僕たちはよくSDGsという言葉を対外的によく用いるが、そのプロセスの長さからしてみれば僕らの大学生活なんてあまりに短い。できることも限られている。でも、そうした地味で長期的な取り組みこそが意外と社会において重要なのではないかということを、よく考えるようになった。

一方で、ロータリーの会が地道にかつ積極的に活動にフルコミットするような真面目な人たちだけの集団になってしまうのも、どうなのか。先のコラムで中村君が指摘したように、たしかに朝清掃は自己満足的かもしれない。目的上長々と存続し続けるべきではないかもしれないし、原体験を持たない人たちの自己満足的な集団になってしまえばもうそれは廃会した方がいいのかもしれないのだろう。でも、その議論を踏まえても、僕は組織の持続そのものに価値があることを考えたいと思うし、対外的な施策だけでなく、対内的な施策も重要であると考えている。

僕の考える対内的な施策とは、具体的にはロータリーの会の活動を「経験」として、各々の会員に自分なりの意味を見いだしてもらうことである。ボランティア活動であるからには、強制させることはできないし、だからこそ各会員に活動の面白さや学びを見いだしてもらいたい。そのため、広報班の班活動では結果よりもまずは各会員の希望を活動に反映させられるように心がけつつ、定期的に活動を振り返るアンケート調査を実施するようにしている。また、各々に散乱ゴミ問題や広報について考えるような機会を提供できるよう、インプット施策も行うようにしている。僕のこれまでの経験を踏まえて、理想の組織とは何かをできるだけ表現しているつもりではあるが、ただこれは、結果を重視していない点で自己満足的な方向に陥る危険性がなくはない。それでも、こうした観点から今後の活動を考えてもいいのではないかと感じる。

ロータリーの会の活動は、終わりへと向かっていくのではない。むしろ未来に向かって多様な方向へと開かれていく。そのような意味で僕はより未来を肯定していいと思うし、散乱ゴミ問題の解決という目的に対して、より様々なアプローチがあっていいと思う。直接的で真面目なものだけでなく、より面白く、楽しく、過剰な部分を内包した施策があり得るべきであると思うのである。むしろ、過剰さにある種の本質的なものがあるようにも思える。

こうした考え方はロータリーの会の中においては邪道かもしれない。「サークルの廃会」という究極の目標を全く無視しているように捉えられるかもしれない。創設者の考え方とも大きく異なる部分があるだろう。だが、これは単に僕が適当なことを思いついて書いているという訳ではない。活動理念である「協働」、そして活動コンセプトである「あしたのロータリーをつくろう」を、自分なりに考察した上での、ひとつの解なのである。

これまでの議論を踏まえることで、ロータリーの会の活動は決して「クリーン化」ではないということをより明確に打ち出すことが可能となる。あらゆるものから過剰さを排除し、合理的に処理されかねない今の風潮に、むしろ率先して対抗するのがロータリーの会なのではないかと考える。

その文脈で僕は、言葉というものを改めて考えてみたくなる。某メディア系サークルに所属していた時に僕が学んだのは、「インサイト」という概念だった。これは、対象や購買行動を洞察することによって見いだされるような、消費者を消費行動に駆り立てることのできるような一種の「つぼ」のようなものである。これをいかに言語化できるか、クリエイティブとして表現できるか否かに仕事の出来具合がかかっている。

この手法は、言葉の可能性を信じすぎない上で、肯定するというある種間接的なアプローチといえる。買ってくださいといっても伝わらない。欲望を喚起させないと伝わらない。言葉を伝えるには、言葉でないものに向き合えないと言えないし、書けない。

言葉でないものに向き合う。思えば創設者の新井さんもそうであったような気がする。ロータリー広場の散乱ゴミ問題を地域課題としています。僕がそう書いたとき、そうではないと指摘された。「地域課題としています」ではない。僕らの言葉によって問題がつくられているのではない。問題は、言葉になるよりも、遙か昔から存在した。問題は問題として続いて、それが長年見過ごされてきた。僕らはそれを認識し、言語化した。その認識を、地域社会に広めることこそ、ロータリーの会の活動である。

だとすれば、改めて、広報である僕の役割である「啓発」とは何か。「自戒」、「刷新」という言葉も、まっすぐ届けようとしても届かない。罪悪感も自制心も、容易に喚起され得ないし、されるべきでもない。

では、人は欲望にのみ駆り立てられる存在か。いや、そんなことはない。僕らは話すことができる。関わり合うことができる。その可能性がある。むしろその相互作用的な関係の中に、僕らはいる。多面的な現実の中に、多様なままに、僕らはいる。それらは全てが言語化され、表象されることのない流動的な空間である。

その上で言葉はどこにあるのか。言葉ではないものとの境界とは何か。思えば「協働」は、互いの差異を認め合った上で関わり合うことを志向する言葉だった。その協働のつながりのなかで、僕らはどこにいるのか。多様な人々の中心に、僕らは本当にいるのだろうか。

言葉はそのまま伝わらない。といってインサイトを打ち出すでもない。だとしたら、一方向的なコミュニケーションではなく、むしろこちら側が受け手にいったん回ることで、そして言語化し難さに向き合うことで、改めて打ち出せるような言葉が、あるのではないか。

「ボランティアは自己満足であってはならない。」

こう考えるようになった僕のひとつの実践が、この展示会である。まずは、地域社会にもっと耳を傾ける。これまでに関わった地域の方や、ロータリー広場の利用者、学生など、散乱ゴミ問題の認識について、それぞれの考え方を聞く。

そしてそうした個別的な認識の差異を踏まえつつ、「議論の場」をつくる。それも熟議によるものでも、論争的なものでもない形による、各自の独力の判断の集合体が浮かび上がるような、そうした「静かな」議論の場にふさわしい対面の空間をつくる。具体的にいうと、調査によって集めた声をパネルによって展示する。そして来場者の方にも、展示についてのコメントを書いて頂けるようにする。それによって、散乱ゴミ問題について知り、考えられるようなきっかけをつくっていく。

そしてこの作業は、「協働」のためのひとつの手続きである。

僕らは散乱ゴミの問題について話し合うことができる。このことは、互いの見えている世界が異なっていても、どこかで共通した部分があるはずだという、ひとつの希望である。

問題認識とは何か。それは何かを他人のものではなく自分事として感じることである。でも、自他の関係性に着目するからこそ見えてくるものも、あるのではないか。

こうして始まった展示会準備の中で、僕たちはこれまで時間帯を変えて3回、ロータリー広場にて聞き取り調査を実施した。当初は、ロータリーの会と聞き、断られることばかりなのではないかと感じていた。だが、実際はあまりそんなことはなく、むしろ快諾し、ロータリー広場への想いをありのままに語ってくださる方ばかりだった。僕らの質問への返答から、むしろ想いがあふれだし、様々な思い出を思いつくままに話してしまう。早大生や早大OBOGだけでなく、昔から地域に住まわれている方や、周辺の企業に勤めている方など、人びとが様々な思いをめぐらせる空間としての「ロータリー広場」なのだということを実感することができた。

また、「コロナ前の賑わいがなくなって寂しい」という声や、「捨てる場所がない、信号が早い」などといった切実な声を聞くこともできた。

そして、地域の方や早大生を対象にしたアンケート調査も進めている。ここからも、様々な意見や考え方が浮かび上がってくることを期待している。

ただ聞き、実感するだけではいけない。こうした手続きを踏まえた上で、私たちはどうしていくべきかを考えなくてはならない。この調査活動を通して、改めてそう考えるようになった。


常に全力で今を生きるだけではなく、継続すること、そして徹底的に未来を肯定すること。

それはただポジティブであろうとする態度ではなく、組織の理念にコミットするが故の、僕なりのポジティブなあり方である。


「ボランティアは自己満足であってはならない。」

これまでを通して、僕にとってボランティアとは自発性でもなんでもなかった。自分が変えられたことの方が遥かに多かった。何によって変えられたか?それはロータリー広場のゴミの存在であるように思う。

手段であったはずのロータリーの会の活動も、いつしか自分の中で目的へと変わっていった。気がついたら、ロータリーの会のことで頭がいっぱいになっている自分がいる。散乱ゴミの問題解決の施策を、気がついたら仲間と真剣に議論している。ポスター展開や、ゴミ箱設置に関する問題、協働活動や政策提言の進め方など…

問題認識とは何か。それは何かを他人のものではなく自分事として感じることである。だが、僕の場合、気がついたら問題認識していた。その瞬間が意識できなかった。そして、自分なりに、その問題認識を他者へと共有しようとしていた。

これまでを通して、正直苦しかったり、辛いと感じることは多かった。それでも、自分なりに考え、考え、そして素晴らしい先輩方や友人たちと議論し、自分の弱さ、無知さを知り、それでも何らかの形でロータリー広場そのものに向き合ったこの約2年間を、僕は一生、忘れることができないはずだ。


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