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おやつの時間がある世界

結局、なんの関係があるのかと言われれば私自身、見当もつきません。

時間

時間というのは不思議なもので、思い出が詰まっていれば詰まっているほど速く感じる。
かと思えば思い出が全くない時に速く感じたりもする。
楽しくて昨日今日、明日と笑って過ごした日は時が流れるのが速い。
嫌なことが続いていてまだかまだかと時計を眺めている日が続いても速いと感じる。
充実していても、苦痛であっても、ある時から私の時計はその針を足早に進めたがっている。

ある年からいきなり時間の流れが変わった。
時を速いと感じるのは良くも悪くもある。
楽しいのは限られているから、苦痛に耐えられているのも限られているから。
もしかしたら、無限にあるものは、私達にとって恐怖を減らすために手に入れたいものなのかもしれない。

「時間」と言う概念だって誰かが作ったからある。
無限のものを有限にした。
その誰かを誰だかも知らずに話しているわけだが、もしかしたらその人は無限の恐怖に気づき、みんなでその恐怖を分けようとしたのかもしれない。
もしくは、ただ単に便利だと気づいたからか。

時間を無駄にするな、時間は買えない。
いずれも事実である。
だが、1日が25時間になり、その1時間を有効に使える人はどのくらいいるのだろう。
もし有効に使える可能性があるとすれば、無駄になる可能性も同じだけある。
おそらく多くの人の現状と同じように。

時間は平等というのもまた事実であるが、侵すものがいることも事実である。
時間というものは寛大でありながら残酷なのかもしれない。

思考

ある年には大人と子供の考えることは違うと気づいた。
馬鹿みたいな話、大人と子供は考え方も考えることもそこまで変わらないんだなと思っていた。
でもある日突然に、話が噛み合わなくなる。
自分の知らない言葉や意見が妙に鼻につくようになり、彼らの考えだけが全てではないことに気づく。
でもそれは自分が大人になっているせいか、周りが自分により多くを学ばせようとしているせいかは一向に分からない。

自分をいつまで子供と定義するのかによっても変わるのかもしれない。
しかし、年齢の違いによる違和感、ジェネレーションギャップというものなのだろうか。
言葉では説明できない感覚がそこにはある気がする。

風の時代の先駆者

私は少数派に属することが多かった。
鼻水を垂らしているような小学生のうちは訳もわからず過ごしているからマシだった。
変わってるねと言うのは褒め言葉だと思っていたから。

中学生にもなると周りと同じ生き方をする方が楽だと気づく。
国語の授業で、エーミールとぼくの関係について意見を求められた。
私は言われた通りに意見を述べたが、先生にそんな考え方はおかしいと非難され、鼻で笑われたあの瞬間を今でも鮮明に覚えている。
私の感覚が全て記憶として封じられた瞬間。
自分は人と違い、変わってることはいけないこと。
みんなと同じでいなければいけない。
そう、多感ながらに思った。

つまらなくても、自分を殺したとしても、周りの求めるものを与えれば辛い思いをしなくて済む。
自分の意見を言うこと、ありのままの自分であることが大事だと大人は教えてくれる。
皮肉ではあるが、小さな子供たちのそれを否定するのは彼らを含めた大人であることが多いかな。
そうして感受性や想像力を奪われた子供達がまたそういった社会を創り、今があるのは言うまでもない。
少数が正解でも、多数が不正解でも、それらの持つ力の不平等さは明らかなのだ。

こんな言い方をしたら大袈裟であるが、いわば考え方の奴隷のような生き方を、考え方をしてきた自分にとってそれ以外の道なんて考えられなかった。
そんな中で芸術やら哲学やらの間に生きている彼女は衝撃的であった。
自分の意見を、芯を持ち、自分のままに生きていた。
奴隷の私にとって、どういった分野においてもその美しさや内容は表面までしか触れてはいけなかった。
内部にまで触れたら、良くて鞭打ち、悪ければ追放されてしまうからだ。
そんな中彼女は果敢にその内部、その奥深く核となる部分にまで触れていた。
彼女と私の違いは、「勇敢さ」にあった。
彼女は鞭打ちも、追放も、死さえも恐れなかった。
違う、彼女の中に「死」というものは存在していなかった。

彼女との出会いによって、小さい頃の私が、本来の私がどこかで何重にも重なった重い扉を開こうとするのは自然なことだった。
未だに勇敢さは持ち合わせていないが、彼女のおかげで第六感とも呼べるだろう感覚を取り戻した。
第六感が何を指すのかは人それぞれだが。
それと同時に周りに似たような人が集まるようになった。
私が得意だと思っていたことは実はみんなできて、私が隠していたことは実はみんな隠していることだったのかもしれない。
そんな風に思うことが増えた。
もちろんそれは「同じ」になることだが、決して私たちがそうであったように少数を否定することは起きてはならない。(起きないと感じている。)

占い師でも超能力者でもない私がとやかく言えることではないが、それは風の時代の始まりではないかと感じる。
全てが可能になり始め(可能になるのではない)、全てが受け入れられ始める(受け入れられるのではない)。
全てはあくまでスタート地点であるが、多様化し、それと同時に統一化していく(矛盾しているようだが、私の乏しい語彙力では説明できないことをお許し願いたい)。
「風の時代」その言葉を聞いた時、全てが腑に落ちた気がした。
感覚というものに答えはないのかもしれない。

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