見出し画像

nero15


ネロは腰をかがめて視線を合わせ「大丈夫?どこか悪いの?」と、訊いた。「顔が真っ青だよ」
 彼はネロの声に反応して顔をあげ、こう答えた「あんたよりはましだよ。鏡を見な」
 ネロは自分の顔を手のひらでさすった。鏡はもちろん、鏡の代わりになるものも見当たらなかった。
「それより変な本だね。どこで手に入れたの?」
「誰かのノートみたいなんだ、あそこに落ちてた」ネロは石の引きずられた跡を指さした。
「くだらない遊びだよ。石を押したり引いたりして。そりゃ体力を使うから疲れるさ。だけどその疲労感を、なにかを達成した結果だと考えるのはひどい勘違いだよ。」
「だけど無意味な疲労感から、何かを達成するためのきっかけを見出すことができないかな」
「苦し紛れの逆説だね、、、。とにかくノートはもとあった場所に戻しておけよ」
「誰のノートだろう」
「先生のノートに決まってる」
「昔いたっていう?」
「さあね、先生を見たって言い張るやつは、みんな嘘くさいからな」
「記録は残ってないの?」
「記録こそ最も信用できないよ」
「ノートは本人に返してあげるべきかな?」
「無理に決まってる。今ここにいない人に返すなんてできない。…物理的にできないだろ?」
「探せばいい」
「どうやって?」
 ネロはそのときはじめて、目の前にいる人物が、すでに土田でも、双子双子でもないものに変わりつつあるということに気付いた。ネロがノートを読み始めるまでは、彼はたしかに土田であり(もしかしたら双子双子かもしれなかったが)それ以外ではありえなかったのだが。
「5人死んだんだね」と彼は言った。彼はもう震えてはいなかったが、青白い顔はそのままだった。ネロはノートをぺらぺらとめくって、飛行事故で死んだ人数を確認し「そうらしいね。胸の痛む事故だよ。なぜこんなことが起こったのだろう」とページを見つめたまま言った。その部分の記述は、括弧で囲まれていたのだが、その括弧は直角に開かれた女の脚のイラストで代用されていた。さっきネロはその部分を、無理やり足を開かされた女の心理を想像しながら音読したのだった。
「高い所から落ちたんだ、そりゃ死ぬよ。猫じゃないんだから」
「怖くないのかい、きみは」
「今は怖いさ。でも、死ぬ瞬間は、怖いとか怖くないとか、言ってる余裕はないだろうね」
「ぼくは怖いよ」
「先生がいないからかい?」
「さあね。だけど誰か、それが誰であっても、僕の不安を救ってくれるとは思えない」
「まあ、先生がいても、事故は起きたわけだからね。ノートにそう書いてある」
「ぼくはさ、死んじゃった5人のうちの一人なんだ。それか、5人全員がぼくなんだ。ぼくはひどく怖いし、同じくらい悲しいんだ」
「しかし、きみは他人にはなれないよ」
「他人になりたいわけじゃない」
「そんなやつはいない、誰だって他人になりたがってる」
「だれかが死んだとき、ああ良かった、自分は死ななくて済んだ、そう思ったりしないか?はっきりそう自覚しなくても、心のどっかではそう思ってるはずだ。やけになった奴の適当に撃った弾丸が、自分の隣の男の眉間を貫いたとき、その瞬間に彼を憐れむことができるか?きっとできない。他人の代わりに、自分の脳みそに穴をあけることを誰が望むだろう。みんなが享受できるはずの明日を、なぜか奪われた他人たち。自分だけが。だから、ぼくは他人になりたいわけじゃない。他人がぼくのもとに集まってくるんだ。ぼくはきみだ、わたしはきみだ、とわめきたてるんだ。あわよくば入れ替わろうと狙っているんだ」
「だけど、飛ぶことだけがぼくの望みらしい」
「我々はヴィラーサじゃない。それに先生もいない。それでも飛ぼうと言うのなら、死ぬことだってあるさ」その言葉は、自虐的な色を帯びていた。「それから、きみ、今日は帽子をかぶってないんだね」
片方の男は、もう一方の男を衝動的に殴った。二人は決裂した。
 殴られた男は殴り返そうとしたが、殴った男は殴り返される前に走って逃げた。小競り合いは追いかけっこへと発展した。



福永武彦の死の島読了しました。あまり僕にとって馴染みのない作家だったのですが、タイトルに惹かれて読み始めました。これは、大傑作です。

日本人作家で、ここまで書ける人がいたということを今まで知らなかったことを恥じました。そういうレベルの作品でした、、。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?