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nero16 / 完結



 前を走る男は、訓練施設のふちを目指して走り続けた。外へ逃げようと考えたのだろう。後ろを走る男は、前の男の背中だけを見て追いかけた。二人はずっと同じ距離を保ったまま走り続けていたので、遠目には静止しているように見えた。
 男たちは、塔の脇を走り抜けた。そしてそのまま、施設の一番外側を囲う金網の前にたどり着き、そこには金網の破れている場所があった。その破れた金網の横には、小さな看板がかかり<勝手口217>と書かれていた。前の男はその破れた穴を、四つん這いになってくぐり抜けた。後ろから来た男も遅れてそれに続いた。
 前の男は、手入れの行き届いていない草むらをかき分けながら進んだ。施設の暖房設備の影響が届かなくなってくると、次第に溶け残った雪が増えてくるのだった。すると今度は草の代わりに雪をかき分けて進まなくてはならない。
そのまま走り続けると、視界に一本の横線が引かれた。それは地平線ではなく、ただの崖だった。
 完全に積もりだした雪の中を、二人の男は、にせものの地平線を目ざして走り続けた。だが、前を走る男は雪に足をとられてずぶずぶと減速し、二人の距離は徐々に縮まっていた。後ろの男は、前の男の踏みしめられた足跡の上を走って、減速を免れていた。
 前の男は後ろの男に比べて疲弊していた。崖にたどり着こうというときには、ふらふらで、今にも膝をつきそうだった。何度も後ろを振り返って、後ろとの距離を確認するようになり、そして、確認するたびに距離は縮まり、後ろの男の姿が大きく見えた。前の男が諦めかけたとき、後ろの男が怒鳴った「そこをどけ!」
 後ろの男は雪の上を、びよんびよんと、全身をばねのように使って走り、どんどん加速して、脇に高く積まれた雪の中に倒れ込んだ前の男を抜き去ると、そのまま崖に向かって行った。
手つかずで、柔らかい雪の上でも減速しなかった。崖は目の前に迫っていた。かつての後ろの男、今では前の男と化した人物は、スピードを殺さずに歩幅を調整し、断崖絶壁の踏切ラインを、思い切りよく踏み切った。「今なら飛べるぞおお」という叫び声とともに。
 しかし、その体はほとんど上昇しなかった。幅跳びのジャンプだった。ネロの視界から、その体は一瞬で消えた。ネロは倒れたまま、地平線より下で鳴り響く、甲高い悲鳴を聞き続けた。悲鳴が途切れることはなかった。
ネロの頭上には街へ出るための、綱渡りスズランテープが張ってあり、埃の塊のような薄汚い雲を分割していた。雲を透過してくる太陽光を浴びる雪もまた、雲と同じようにくすんでいた。
 ネロの歯は寒さにカチカチ音を立てた。ネロはタンクトップに、ランニングパンツをはいているだけだった。
 やがて、空の様子が変わった。水を吸い過ぎたスポンジから水が垂れるように、雲から黒い水滴が落下した。汚れきった黒い雨だった。それはネロの頬にぶつかって割れた。ネロは手の甲でぬぐった。それを皮切りに、黒い雨はとめどなく降った。そして雨はあたり一面の固有の色を消し、黒く塗りつぶした。
 雪はどんどん溶けて、地平線の向こうへと流れ落ちていった。だが、厚く積もった雪をすべて溶かすには時間がかかった。地面は白と黒のまだらの模様がぐるぐる動いて、変化しながら維持された。葉の緑や幹のこげ茶色、ネロの肌色、空に張られたピンク色のスズランテープや、そして空一面の色が欠落した。不安定で、出来損ないの夜だった。月も星もなく、太陽は逆説的に存在を消されていた。
 ネロは懐中電灯を取り出してスイッチを入れたが、それは何一つ光の中に暴き出さなかった。光は十分に足りていたからだ。足りていないのは色だった。
それはネロの位置からは、コメ粒ほどの大きさにしか見えなかった。
その米粒は、全身をうろこに覆われた獣だった。うろこは光を反射し、まるで獣自身が光り輝いているかのように装っていた。黒い雨粒は吸着する機会を得ることができずに、さらさらとうろこの表面を下っていった。獣は清水のなかを進んできたのだろうか、体には泥一つついていなかった。生臭い息は、アルコールの匂いに似ていた。目は赤く充血していた。歩くたびにガチャガチャとうろこが鳴った。
獣は二足で立ち、両手をぶんぶんと振り回した。獣はそれによって、体の動作の確認をしているらしかった。一通りの確認を終えると、獣は大きく息を吐き、そのまま地面を蹴って高くジャンプした。
 獣は空中で重力にあらがった。両腕をがむしゃらに振り回し、バタ足や、カエル泳ぎの足などを、とっかえひっかえ高速で繰りだした。うろこの隙間から垣間見える肌はすぐに紅潮した。全身から汗が噴き出していた。汗は空中で思い思いの方向へ飛び散った。
驚くべきことに、獣の体は空中に浮いていた。そしてほんのわずかずつ前進していた。もちろん、獣には翼はなく、風に浮かされるような重さでもない。獣はただがむしゃらに体を動かすことだけで、空を飛んでいた。空をかき分けて進んでいた。
 ネロは米粒のような光が空に浮かび上がったのを見て、「ヴィラーサだ」とつぶやき、そのまま飛び起きると「ヴィラーサだ!」と叫んだ。そしてより近くで見るために、雪の上を駆けだした。もはや、走っても走っても風景は変わらない。ネロの腕や脚は雨に打たれて真っ黒に塗られていて、風景とまじりあい、よく見なければどこに肉体があるのか分からないほどだった。
 光粒の飛んでゆく方向にネロは走った。それは牛よりもゆっくり空を飛んでいたので、着地場所を予測して先回りすることは、さほど難しいことではなかった。
 銃声のような落雷が鳴りひびいていた。それは太鼓の音にも似ていた。悲鳴が笛の音となって絡みつき、どこからともなくあの歌が聞こえてくるように思えた。
 
おとうさん おかあさん 
ありがとう ありがとう 
ぼくら(わたしたち)はがんばります 
わたしたち(ぼくら)はたたかいます 
一致団結して
いざ いざ
 
ネロは立ち止まった。どんなに走っても、米粒に近づくことができなかった。それはネロが走っているときだけ、ネロと同じような速度で動き、立ち止まると動かなくなった。
目を閉じてみると、まぶたの裏のほうが、外よりもずっと明るかった。もしくは、そこには色があった。暗闇に似てはいたが、ぼんやりとしたうすい茶色の光に包まれていた。
 そんなまぶた裏の景色の中に、まるでカーテンの幕を押し分けるかのようにして、一つの人影が訪ねてきた。人影はネロに向かって何かを喋っていた。
「忘れ物見つからなかったわ」と人影は自嘲的に言った。顔には影がかかっていてよく見えなかったが、ネロは声の印象からそれをマリとみなした。「忘れた場所を覚えてないのに、見つかるはずがないよね」
「今、ヴィラーサを見つけたんだ。きみにも見てもらいたい」
「私は自分の忘れ物を探したいのよ」
「でも、ぼくだけが見つけたってしょうがないんだ。嘘だって思われちゃう」
「誰にも言わなきゃいいでしょ、嘘だって思われたくないなら」
「…きみに見てもらいたいんだ」
「いやよ。私いま、あなたのまぶたの裏にいるのよ。どうやって見るっていうの」
 ゲは大きく口を開けて笑っていた。口の中は真っ黒だった。
 ネロは目を開けた。相変わらず真っ黒でなにもない。ヴィラーサの反射光はまだそこに残されていた。雨がネロの体を流れた。そのくすぐったい感触が、ネロの体がまだ存在していることを示していた。
 墨汁そっくりの一すじの雨が、ネロの右目に流れ込んだ。見える景色は変わらなかった。目が少し染みただけだった。まばたきをするたびに、マリの影が見えた。もう一度目を閉じると、まぶた裏の世界は半分になっていて、半透明になったゲがたたずんでいた。
「忘れ物を探しているあいだは安心できるのよ」と、ゲは言った。「見つからなくてもいいかもって、思ったりしてるの」
 
ちゅちゅちゅ・・・ちゅ・・ぴ・・ぴょ・・・ぴょ・・ちち・・ぴゅ・・ちゅちゅちゅ・・ちゅ・・ぴ・・ぴょ
 
繰り返される録音された鳥の鳴き声と、太鼓の音に似た雷鳴、それから笛の音としての悲鳴。二番の歌詞が聞こえてくるようだった。
 
おとうさん おかあさん 
あいしています あいしています 
ぼくら(わたしたち)はおれいします 
わたしたち(ぼくら)ははたらきます 
一生懸命に
いざ いざ
 
が聞こえ続けている。これは二番だ。一番に戻ることもなければ、三番へ続くことも無く、ずっと二番だけだった。
 ネロは自分が、目を開けているのか、閉じているのか分からなくなっていた。どちらも同じことだったからだ。マリはまぶたの裏で、いてもいなくても同じだった。ただ、寒さだけが身にこたえた。
 ポーン。くだらない時報だった。もう時間なんて、なんの意味もないのにね。

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