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わたしたちの結婚#28/温泉街と馴染んだ手


レストランを出るとき、シェフのご夫婦が外までお見送りをしてくれた。

改めて美味しかったと告げると、シェフは、東京で修行をした後、この大自然の中でレストランを開いたというエピソードを教えてくれた。

東京で出会ったという奥様に、環境の変化に不安はなかったのかと聞くと、

「主人は言い出したら聞きませんから」

奥様は困ったように、けれど少し誇らしげに答えてくれた。

夫婦というのは運命共同体なのだな、とその時改めて感じた。

一方の大きな決断で、自分の過ごす環境が大きく変化する。

ひとつひとつの決断を尊重し合って、何度も何度も話し合って、ふたりの道を選択していくことは、容易いことではないだろう。

どんな夫婦にも選択の歴史があって、その歴史がふたりをまとう空気を作っていくのかもしれない。

これから結婚する私たちは、どんな選択を積みあげていくんだろう。

そんなことをぼんやり考えながら、夫妻のエピソードを聞いた。

ふたりに丁寧に別れを告げ、夫が車を出した。

「素敵なレストランだったね」

お互いに感想を伝え合いながら、次の目的地を目指した。




山道をしばらく進むと、空が開けて、温泉街が顔を出した。

トラベルサイトで見るよりも、ずっと美しく、具体的な景色が私たちを迎えてくれる。


「あ、あの旅館じゃない?」

私はふたりで選んだ宿を指差して夫に伝える。

少し小高い山の中腹に位置しており、窓からの景色が期待出来そうだった。


宿に着くと、和モダンで落ち着いたロビーの一角、大きな窓から日本庭園が見えるソファに通された。

ウェルカムドリンクは温かいほうじ茶。
一口サイズの可愛らしいお茶菓子と一緒にいただく。

笑顔で迎えてくれた中居さんが、丁寧にチェックインの手続きをしてくれた。

お茶を飲みながら、座ってチェックインが出来るというのは、なんとも高級宿らしくて贅沢だなあと、滅多にない経験に胸を躍らせた。

夕食の時間や、大浴場の場所について、心地いいトーンで説明を受ける。

接客業の人たちというのは、どうしてこんなに耳心地のいい音を出すことが出来るんだろう。

いつもいつも、ただただ感心してしまう。


お部屋まで案内してもらうと、ふたりで座敷に腰を下ろした。

ロングドライブの疲れを癒すように、座椅子にもたれかかる。

大きな窓から、雄大な山々と青い空が見えた。
右から左へゆっくりと雲が流れていく。

ゆったりとした座敷は、ふたりで過ごすには十分過ぎるほど広くて、その余白が私を安心させた。


少ししたら、荷物を置いて温泉街を歩きに行った。
有名な温泉プリンを食べたり、定番の場所で写真を撮ったりした。

手を繋いだり、何か用事が出来て離したり、また、繋いだり。

そんなことが自然に出来た。

私たちはいつの間にか、お互いのひとつひとつの行動に緊張しなくなっていたし、離れた手が、また自然に繋がれることを当たり前に信じられるようになっていた。


握り合う手に緊張はなく、夫の手に私の手がするりと馴染んでいた。

まるで、その手の中が私の手の帰る場所かのように。


お土産のお会計を済ませて、夫の元に戻る。

「何を買ったの?」

私は袋を開けて説明する。

「これが両親、これは職場。これはお友達に」

夫は笑顔で頷いたあと、私のお土産の袋をそっと持ってくれた。

空いた夫の右手に、ほんの少し私の左手で触れる。

すると、夫の右手が柔らかく開き、私の左手を包み込んだ。

優しく、繊細に。


宿に戻る時間だった。
夕暮れが私たちを照らし、ふたつの長い影が伸びていた。

手を繋いで坂道を登る間、その影ですら、愛おしかった。



ロン204.

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